バステトの雨 9 | 松本真の未来創造提案書

松本真の未来創造提案書

南京都の風雲児、表現者松本が語る、
未来に対する提案書的ブログ

9
「もし、人と猫が戦争になったら、私は猫側につくから」

塔子が帰ってきた。
僕の愛すべき妻が帰ってきた。

けれど彼女の姿はもうそこにはなかった。

ついさっきまで、恐らく彼女はここにいた。
彼女の懐かしい匂いと温度が立ち込めていたのだから、それは絶対の事実だった。

雑然と散らかっていた部屋は丁寧に片付けられ、
洗い終えた衣服は箪笥の所定の位置に整頓して入れられていた。
ベランダに出ると、溜まっていた洗濯物が洗って干されていた。
キッチンの流しに放置してあった、カップ麺の空箱もなかったし、
テーブルの上のナビスコのクラッカーとネロダーヴォラもすっかりと片付けられていた。

「僕が居なかった夜」に塔子はここで、僕を静かに愛してくれていた。

冷蔵庫を開けると、ジノリのお皿に乗ったロールキャベツがあった。塔子のロールキャベツは本当に美味かった。

彼女の温もりは至る所に在るけれど、
彼女の肉体はここには無かった。

僕はロールキャベツを電子レンジで温めてワインセラーに片付けられていたネロダーヴォラと一緒に食べた。
優しいトマト味のロールキャベツを食べながら、
塔子が出て行った事を改めて考え直した。

塔子が出て行った日の前の夜。

「もし、人と猫が戦争になったら、私は猫側につくから。」

彼女はそう僕に告げた。

何故、その様な会話になったのか?
僕はその夜のやり取りを思い返した。

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僕らは2人で白ワインを飲みながら何気なくテレビを見ていた。その日は店が暇だったから僕はいつもより早めに帰宅していた。
そうして、店で開けたソアーヴェを2人で飲もうと持ち帰った。

テレビでは、夜のニュースが流れていた。
南スーダンの内戦についてのニュースだった。

大統領と副大統領の権力争いのせいで、その国は危険にさらされていた。
彼らの身勝手な私欲の煽りをくって、無邪気な笑顔の子供たちは殺され、女達は老いも若きも見境いなく犯された。
難民キャンプでは、泣きじゃくる赤子に数匹の蝿がたかり、真っ白い髭の老人はへたり込みながら途方に暮れ絶望を見つめていた。

コメンテーターはその国の現状と課題を箇条書きのフリップにして説明していた。
とても分かりやすい説明だったけれど、他人事のような無責任さを感じた。

次のニュースだった。
確かに塔子の様子はおかしかった。
猫のニュースだった。猫の虐待のニュースだった。
その男は五十匹以上の猫を自宅で飼っていた。
劣悪な環境で飼われていたその家の周辺には、異臭が立ち込めていた。
真夜中になるとひっきりなしにその館からは猫達の呻き声が洩れ聞こえてきた。そうして、時折、数週間に一回程度のサイクルで、鋭い悲鳴の様な鳴き声が闇をつんざいた。

周辺住民の苦情により、再三の注意を受けていたその飼い主が捕まった。
罪状は「器物破損」だった。
無抵抗の猫達を傷付け殺めた罪は「器物破損」だった。
塔子は怒っていた。
それは、静かな怒りだった。
声を荒げたり、物を壊したりするような稚拙な怒りではなく、今思えば、何かを覚悟したような怒りだった。

僕たちは、スカモルツァアフミカータをつまみながら、ソアーヴェでそれを流した。

ニュースはスポーツのコーナーに切り替わっていた。
僕の気に入りのサッカー選手がカップ戦の決勝で、ハットトリックを決めていた。
紫色のユニフォームをきたストライカーは3点目のゴールを決めると左手の薬指に軽くキスをして、両手を天に突き上げた。
僕がその画面を見続けていると、塔子は立ち上がって無言で僕の額に軽くキスをした。
そうして、寝室に入って行った。

僕はスポーツニュースをひとしきり見終えた後、
塔子を追って寝室に入った。
塔子はクイーンサイズのベッドの上でうつ伏せに眠っていた。
僕は華奢な彼女の背中を優しく撫でた。
軽いくせっ毛のセミロングの髪をクルクルと指に巻いて、耳の裏を優しくなぞった。
うなじにキスをして、耳朶を軽く噛んだ。
両肩を掴んでいささか強引に塔子を仰向けにひっくり返した時、

「ねぇ。」

とまるでグラグラと沸騰したお湯に打ち水をするみたいに、塔子が僕に話しかけた。

「なに。どうした?」

僕は少しばかり焦っていた。
僕はその時どうしても塔子を抱きしめたかった。
そうしなければならない理由はなかったけれど、
それを止める方法がなかった。
僕は、塔子の口をふさぐ様にキスをした。

塔子は目を瞑る事なく、僕とキスをした。
キスはしたけれど、彼女はその時、別の何かを見ていた。
そうして、彼女はこう言った。

「もし、人と猫が戦争になったら、私猫側につくから」

僕には意味がわからなかった。
僕の興味はその時全く別の所にあった。
だから彼女の言葉を気にも留めなかったし、問いただしたりもしなかった。

僕はできる限り平静を装いながら、
彼女のシャツのボタンを一つ一つはずしていった。
塔子の乳房はまるでつきたての餅みたいに白くて柔らかだった。
僕は、雄である本能のみをフル稼働させて、彼女に貪りついた。

彼女はその本能的で動物的な時間でさえも相変わらずに空を見つめていた。それはつまり彼女の中で何かを決するように。

『僕が彼女を一方的に愛した』後、僕は異常なくらい急激な眠気に襲われた。その時彼女が部屋から出て行くのが何となくわかっていたけれど、僕は睡魔との闘いに全くもって勝つ事が出来なかった。

それから数時間後、僕が目覚めた頃、彼女の姿はもうそこにはなかった。

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僕は改めて透き通るような薄ぼけた記憶を呼び起こした。
ひとつひとつと記憶を呼び起こしていくと、
歩く事もままならなかったほどの足下の暗闇に
目が慣れてきたみたいに、次第にその時の状況を理解する事が出来た。
彼女は僕が睡魔と対峙しているその時、確かに何かを調べていた。おそらくそれはリビングにあるパソコンかもしくはスマートフォンかで。
けれど、塔子は携帯端末を持っていない。
何かを調べたりする時は、リビングにあるパソコンを使うかあるいは、僕のスマートフォンを使うかに限っていた。

僕は、ロールキャベツのスープまでしっかりたいらげた後、リビングのパソコンの電源をいれた。

パソコンが立ち上がる聞き慣れた音の後、パスワードを入力して、インターネットにアクセスした。
そうして、
『僕が一方的に愛して彼女が出て行った夜』すなわち、16日前付近の履歴を確認した。

僕の推測は間違えてはいなかった。

カチカチと履歴をひとつひとつ、検索する。
「気になる新しいレストラン」
「行き着けの包丁屋」
「消耗品のネットショップ」
「いかがわしいアダルトサイト」
……

「あなたの優越感を神域に。動物虐待サイトGODhand」

見た事もないホームページだった。

恐る恐るサイトを開けた。

年齢を問いかける画面が出た。
その下に累積の閲覧数が表示されている

「104852」

僕は18歳以上である事を示すEnterマークをクリックして前に進んだ。
僕が104853人目の来訪者だ。

サイトには、「犬」「猫」「鳥」「その他の小動物」「牛」「馬」「豚」「その他の動物」
とジャンル分けされた目次が登場した。

僕はまず、「犬」をクリックした。

それは、見るに絶えられない画像だった。

背中が所々に禿げて皮膚がズル剥けて赤くただれている長毛の雑種の犬がジッとこちらを見つめている。

その瞳は怯えと憎しみに滲んでいた。

恐らく、いや間違いなく傷つけられたその彼には何の罪も無い。
けれど彼は身勝手な「神の手」によって裁かれた。

彼はきっと生まれてきた事を心底から後悔しているだろうと思った。そういう目を彼はしていた。

次の写真は、もっと酷かった。
言葉にする事すら出来ない残虐な画像だった。

僕は鳥肌が止まらなかった。
誰かがこれを見てある種の欲望を満たし、優越を感じているのだと思うと、恐ろしい嫌悪感に冒され、吐き気をもよおした。

僕は目次に戻り、大きく深呼吸してから「猫」をクリックした。

そこにも目を覆いたくなる画像が羅列されていた。
幾つかの悍ましい画像をスクロールすると、何処かで見かけた風景が見えた。
あの時ニュースで見たあの館だった。
逮捕されたあの男は、猫を傷つけては画像このサイトに投稿していた。彼のやり口は火だった。
彼は火を使って、猫達を虐げた。
狭いゲージの中に入れられた猫は迫り来る火の猛威に慌ておののき、恐れ暴れた。
そうしておそらく男は、自分が神にでもなったかのようにその行為に陶酔していた。

塔子もきっとこの画像見た。
彼女と人間との戦争はこの時にすでにもう始まっていた。
勿論彼女は言うまでもなく猫の味方だった。

彼女は人間という存在そのものに疑念を抱いていたのかもしれない。

人間は歴史上、弱きを喰い物にしてきた。
もちろんそれは自然界の必然なのかもしれない。
しかしながら人間が他者を喰い物にする範疇は、弱肉強食や自然の摂理からはとうに逸脱していた。

人間は自分の利益と優越の為に、弱きを殺め始めた。そうすることで人間は自分達の都合のよい支配を勝ちとってきた。
そうして、人間の『弱いものいじめの連鎖』は、
その事を理解する事もできない、小さな命にすら向けられていった。

意味のない、虐殺。

僕はそれを繰り返す彼らを果たしてクズと蔑む事が出来るだろうか。
塔子もおそらくはそのジレンマに苛まれていた。

僕らも彼らと同じだから。
そのような下卑た種を繋いできたのだから。

塔子は昔こう言っていた。

「出来れば猫になりたいよ。けれどなれないの」

彼女は自分自身が人間である事に苦悶していたのかもしれない。

さらに僕は画面をスクロールした。
次は動画が閲覧出来た。

その部屋は綺麗に片付けられ、中央には腰の高さぐらいの台が置いてあった。その台には、脚を縛られた白い猫が乗っていた。

動画の主の後ろ姿が映し出された。
最初は何かの間違いだと思った。
けれど、それは僕にとってはあまりにも象徴的なものだった。

台の横側には様々な種類のはさみが置かれていた。
動画の人物は針のようなものをとりだして怯える猫の足の裏をちくちくと刺していた。
真っ白い猫はつんざくような鳴き声はあげては、歯をむき出して、「シャーッ」と威嚇したが、動画の主は今度はどこからか注射器のような物を持ち出して、その猫の腹にぶすりと刺したあと何かを注入する仕草を見せた。
猫は激しく痙攣した後、ぐったりと動かなくなった。それからしばらくは横たわったまま、大きく呼吸をする猫だけが数十秒間映し出されていた。

そうして動画の主は、録画ボタンを消すためにカメラをいじくった。
カメラをいじくった拍子に、今まで写っていなかった部屋の中の全体像が垣間見えた。

一瞬だけ写ったキャップの表面に何かの印字が見えた。

『あいはらペット』

後ろ姿の動画の主の髪は、絹のように美しかった。