Body Voice 加藤です

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とてもステキな未来だな💖

 

地球採食

自然農というか、家庭菜園が出来ない(枯れてしまう)わたしには

とてもしっくりする仕組み

 

コロポックルみたいなAI やロボットの使い方なら大賛成

植物も動物も虫も

みんな共に生きて行ける

 

願わくばわたしもその場にいられたら… サイコー(笑)

 

 

ちゅーことで

冨田 直子さんのFacebookより転載させていただきます。

いつもありがとうございます。

↓↓↓

【食3.0が見えてしまった…ような気がする】

地球採食と、風景ごと変わる食の未来

 

やること山積みのゴールデンウィークなのに、小さい頃からの問い、「人類このままで大丈夫だろうか?」が、また発令してしまいました。あれこれ考えていたことをつなぎ合わせたら、どうやら、これからの時代の新しい食の形「食3.0」が見えてしまった……ような気がします。

「食」を語る資格はまったくない、お料理も苦手、農業も農の現場も知らない、食べられる野草や山菜もわずかしか知らない、3年前までの都会人。東京時代のベランダ菜園と、館山に移住してからのわずかな野菜づくり、そして生物多様性の庭づくり、さらに、これからの食のあり方について考える機会が重なる中で、そんな断片が、ふとつながって見えてしまった未来の食。

いつもながら長文で、しかも大風呂敷ですが、拙いアイデアであっても、未来を考えるってワクワクする。ご批判、賛同、発展アイデア、なんでも大歓迎です。ご笑覧いただければ幸いです。

まずはじめに、今回、いきなり「食3.0」と言っているのは、以下の定義においてです。

食1.0: 地球にあるいのちをそのままいただく「狩猟採集」

食2.0: 食べたいものを育て、安定させる「農業」

食3.0: 農業を経由した人類が、現代の技術と倫理、そして「みんなで使い、守り、分け合う」コモンズの知恵で、もう一度「地球のいのちをまるごと受け取り直す」こと

これは、野草摘みや山菜採りを楽しもう、というだけの話ではありません。田舎では当たり前にある知恵や、地域に点在している小さな実践を、社会全体の食料観や自給のあり方まで広げて考えてみたらどうなるだろう、という話です。

そして、もちろん、農業を否定するものではなく、農産物だけが食料の中心にある今の状況から、土地や海や森がすでに差し出している、けれど私たちがまだ十分に食料と呼んでこなかったいのちをを、もう一度「食料」と呼び直していく。そんな大きな転換が起こる未来のことです。

食3.0への旅路は、何を食料と呼び、何を主食と呼ぶのか、その境界線を引き直し、「食べられるものを見つける目」を、人類として取り戻す旅になるかもしれません。

そして同時に、それは「そのいのちは誰のものなのか」「誰が採り、誰と分け合い、何を残すのか」という、所有と分配の問いを、もう一度考え直す旅にもなりそうです。

◆草ボーボーの庭で、矛盾に気づく

庭の草が、ボーボーになってきた。刈るべきか、刈らざるべきか。いつも悩ましい。

3年前から坂田昌子先生のワークショップを受けながら、生物多様性の庭づくりをはじめた。他のいのちに、心を配ることを少しずつ学んでいる。「人間が通るところだけ手入れすればいい」と決めてから、庭の景色は一変した。

ノビルがわさわさ生えている。カラスノエンドウも、ヨモギも、クワの木も、誰に頼まれるでもなく、ワンサカ出てくる。肥料も水もあげていない。ただそこに生えていて、しかもおいしい。

一方で、私たちはそのすぐ隣で、野菜づくりに苦労している。砂地の庭にどうにか土をつくろうと、落ち葉や丸太、鶏糞、藁、米ぬかを必死に投入する。

トマト、キュウリ、レタス…日本で流通している野菜の95%は、外来種とも言われている。つまり、もともと、この土地で自生するものではない。だから雑草のように、勝手には生えてこない。そんな土地に馴染まない野菜をなんとかして育てるために、私たちは草を抜き、土をつくり、肥料を入れる。最近は家人が、苦労して作った自家製の土に、丁寧に藁をかぶせてネギを育てている。

そのわずか三メートル隣で、ネギの親戚である「ノビル」が、勝手に、力強く、ワサワサと生えているのに……。

なんだろう、この矛盾は。

館山に暮らしていると、ご近所さんから釣ったばかりの魚をいただくことがある。聞いたことのない名前の魚。スーパーには並ばない。でも食べてみると、びっくりするほどおいしい。いわゆる「未利用魚」だ。

規格に合わない、流通に乗らない。でも、海にはいる。おいしい。

もしかしたら、私たちはいただける草を「雑草」と呼び、いただける獣を「害獣」と呼び、いただける魚を「未利用魚」と呼び、森の恵みを「食料」ではなく「自然資源」と呼んで、食べ損ねてきただけなのではないだろうか。

何を「食料」と呼ぶのか。その問いが、庭と、海の中から立ち上がってきた。

環境再生型農業や自然農法、協生農法、あるいは腸内細菌と土のつながり。それらの視点に私は深く共感しているし、実際に学んだり試したりもしてきた。

でも、館山の砂地で暮らしていると、もうひとつ別の問いが湧いてくる。

食べられる生態系を一からつくる前に、すでにある生態系を「食料」として読み直せないだろうか。

◆日本列島は、世界有数の「天然の食卓」

日本列島は本来、「農業をしなければ生きられない場所」ではなかったようだ。

稲作が全国に広がるまでに、伝来から600年〜800年もかかったのは、この列島が農業を必要としないほどに豊かすぎたからだという説がある。それほどに、この列島は天然の「食卓」として完成されていた。だからこそ、縄文時代は1万年以上も続いた。

データで見ると、この列島のポテンシャルは凄まじい。

🌿植物: 東京の高尾山ひとつに1,600種超。これはイギリス全土の自生種に匹敵する多様性だという。

🌊海: 日本近海には世界の海水魚の約4分の1、約3,700種が生息。管轄海域の海洋生物は約3万4,000種にのぼる。

🌳森: 森林蓄積量は半世紀で約3倍、約52億立方メートルに膨れ上がり、現在も毎年約1億立方メートルもの「いのち」が積み上がっている。この驚異的な成長速度には、持続可能な森づくりが得意なドイツのフォレスターも、日本に来て驚愕するという。

かつて農業へ向かった理由は、ひとつではなかったようだ。保存、安定、分配、定住。季節や場所によって揺らぐ食べものを、来年へ、共同体へ、未来へつないでいくための、複雑な応答として、農は育ってきた。

そして今、その応答の仕方を、もう一度編み直せる時代に来ているのかもしれない。

冷凍・加工・低温物流の進化。AI、ロボット、生態系モニタリング。

そしていま、農業を取り巻く前提そのものが揺らいでいる。肥料も、燃油も、包装材も、園芸資材も、国際情勢や化石燃料価格に左右される。食料安全保障という言葉も、いよいよ現実味を帯びてきた。

日本の食料自給率は、カロリーベースで4割に届かないと言われている。

けれどこの列島には、森の木の実、海の魚、野山の草など、まだ十分に「食料」と呼びきれていないいのちも無数にある。

その一方で、肥料も燃油もなしで勝手に生えてくる草を、私たちは「雑草」と呼んで、捨て続けたり、石油を原料とする除草剤で、一生懸命枯らしている。 これは、もしかしたら、ものすごく奇妙なことなのではないか。

食料危機の時代に問うべきなのは、「どうやって今まで通りにつくり続けるか」だけではない。

「なぜ、すでにそこにあるいのちを食料と呼んでこなかったのか」。

その問いが、私の庭では、ノビルと共に生えてきた。

◆「耕作放棄地」を、希望のフロンティアへ

これから日本の人口は減っていく。

人口減少はふつう「危機」とされるが、別の読み方もできる。人口が減るということは、この列島の地力が、人間の数に対して相対的に豊かになっていくということだ。

実際、館山に来てからの3年だけでも、我が家の裏の農地も、目の前の農地も、次々と手放されていく。高齢化で続けられなくなった田畑が、草ボーボーの草原に戻っていく。

それを見ていると胸が痛むが、同時に別の景色も見えてしまう。

もしこの草ボーボーの場所から、食べられる草や実が籠いっぱいに集められて出てきたら。そこは「荒れてしまった土地」ではなく、「食料と呼び直されるのを待っていた土地」になるのではないか。

ただし、里山は放っておけば勝手に豊かになるわけではない。かつての里山は、人が関わり続けることで多様ないのちを育んできた。これからの「新しい収穫」は、放置された自然をただ食べる話ではない。

人が関わり続けてきた里山を、AIとロボットも加わりながら、もう一度「食べられるいのちの場」として手入れし直す話だ。

◆地球採食と、コロボックルがいる未来

こうして見えてきたのが、私が勝手に「地球採食」と呼びたくなった概念だ。

食べたいものを土地でそだてるのではなく、土地が差し出しているものを、こちらの食べ方のほうで受け取りにいく。

農業以前に戻るのではない。農業を経由したからこそ手にした技術と倫理とコモンズの知恵で、もう一度、地球のいのちを食卓へ迎え直すこと。

これまで、それは難しかった。

自然の恵みは、季節によってばらつく。場所によって違う。少量しか採れない。すぐ傷む。おいしく食べるには手間がかかる。流通にも乗りにくい。田舎の人が、暮らしの中でちょっと楽しむくらいだった。

でも今は違う。

AIが観察できる。ロボットが少しずつ収穫できる。冷凍技術が季節を越えさせる。加工技術がばらつきをおいしさに変える。低温物流が、その土地の小さないのちを遠くの食卓へ届けられる。それら現代の技術を統合できたなら、これは、田舎の人が暮らしの中で少し楽しむだけのものではなくなる。食卓の彩が変わり、自然の景観が変わり、これまで食料として数えてこなかったいのちまで含めて、食料自給率の考え方そのものが変わっていく。そんな本気の転換だ。

私が見てしまった未来には、小さなロボットたちがいる。

コロボックルみたいな出で立ちの、AIを搭載した「生態系の番人」だ。

日本中の野山や耕作放棄地の藪を、彼らがガサゴソと歩き回る。何がどこに生えているのか、どれくらい増えているのか、虫や鳥は来ているのか、水や土はどう変化しているのかを見ていく。

ヨモギは根こそぎ抜かず、来年また芽吹く分を残して、やわらかい葉だけを少しずつ摘む。桑の実を抱えた籠の横には、鳥たちのために残した枝が揺れている。海辺では、海藻の森がまた育つ分を確かめながら、人間がいただく分だけを集めていく。

ノビルもヨモギも、木の実も山菜も、一つひとつは小さい。キャベツや大根のように一玉でドンと満たしてはくれない。人間が手で集めるには大変だ。

だからこそ、コロボックルなのだ。

彼らが藪から小さな籠を抱えて現れるとき、耕作放棄地という言葉の色が変わる。

草むらで摘まれた小さないのちは、地域の加工場でスープやお団子や保存食になり、宿の朝ごはんや、学校の給食や、都市の食卓へ届いていく。食べた人は、その土地のことを少し知る。売上の一部は、また草刈りや水路の手入れ、海辺の見守りへ戻っていく。

農業と流通の中で、いのちはいつの間にか見えにくくなっていた。でも私たちはいつだって、他のいのちと地続きで生きている。いのちの一員として、いのちをいただきながら生きていることを、コロボックルを介して、思い出していく。

そして次に見えてくるのが、「誰のものか」ではなく、「誰と、どう、分け合うのか」という問いなのだと思う。

◆「誰のものか」から、「誰と、どう、分け合うか」へ

ノビルもヨモギも、山菜も木の実も、海の魚も、山の獣も、「自然の恵み」と言いたくなる。

けれど実際には、土地には所有者がいて、山には入会の歴史があり、海には漁業権がある。そこには、手入れしてきた人たちの時間も積み重なっている。

だからこそ、地球採食には「採る」だけではなく、「預かる」「残す」「分け合う」という仕組みが必要になる。

コモンズとは、誰か一人のものではないけれど、誰も責任を持たない場所でもない。みんなで使い、みんなで守り、次のいのちへ渡していくための、共有の場であり、関係性であり、約束ごとのこと。

私自身も、高尾のコモンフォレストに参画したり、館山で庭を「みんなの庭」として開いてきた経験を通じて、コモンズが、手入れと関係性の中にあるものなのだと少しずつ感じはじめている。この家と土地も、所有しているというより、いつか土地の神様に返すまでの預かりものという感覚だ。

かつての入会地のような知恵に学ぶことはある。けれど、昔に戻ればいいわけではない。人口も、暮らし方も、流通も、技術も、地域のかたちも変わってしまった。

だから必要なのは、まったく新しい分け合いの仕組みなのかもしれない。

そこには、地域の小さな手仕事だけでなく、食品会社や加工会社、流通会社の力も存分に使いたい。冷凍、乾燥、発酵、下処理、品質管理、低温物流、商品開発。大きな仕組みを、もっと採るためではなく、小さないのちを壊さず、広く、おいしく分かち合うために使うのだ。

たとえば、耕作放棄地や里山を、土地の所有者だけで抱えるのではなく、地域の人、子どもたち、食品会社、研究者、自治体、そしてコロボックルたちで見守る「食べられるいのちの場」として預かる。何をどれだけ採り、何を残し、誰と分け合い、売上の一部をどう土地や海に戻すのかを、毎年、土地の様子を見ながら決めていく。

そうすれば、固定資産税だけが重くのしかかり、二束三文で手放すしかなかった土地が、地域の食卓と生態系を支える、新しい財産に変わっていくかもしれない。

地域の人は、コロボックルと一緒に野山の手入れをする人になる。子どもたちは、食べられるいのちを見つける目を育てる。食品会社は、ただ原料を買うのではなく、土地に返す仕組みごと商品にする。研究者は、生態系の変化を見守る。自治体は、放置された土地を「問題」ではなく、地域の未来の土台として扱い直す。

そしてコロボックルたちは、草むらの小さな変化を見つけて、人間たちの寄合にそっと持ち帰る。

今年はここを少し休ませよう。

ここは鳥たちの分を多めに残そう。

ここは子どもたちと観察しよう。

ここは小さな加工場へ届けよう。

そんなふうに、食べることと手入れすることが、少しずつ結び直されていく。

「これは誰のものか」から、

「これは誰と、どう、分け合うものか」へ。

その転換ができたとき、「荒れた土地」は、食卓と生態系を同時に育てるコモンズへ変わっていくのかもしれない。

◆人間が「いてくれてよかった種」になる未来

もしかしたら、食3.0の本当の希望は、人間がもう一度、地球にとって「いてくれてよかった種」になれるかもしれない、ということなのかもしれない。

生態学には「キーストーン種」という言葉がある。

ビーバーが水辺をつくり、湿地を生み、多くのいのちのすみかを増やすように。その存在やふるまいが、生態系全体に大きな影響を与える種のことだ。

人間はこれまで、あまりにも大きな力で、生態系を壊す側に回ってきた。けれど、その力は、方向を変えれば、生態系を豊かにする力にもなりうるのではないか。

食べるために観察する。

観察するから、土地の変化に気づく。

気づくから、採りすぎず、残し、手入れする。

手入れするから、草も、虫も、鳥も、魚も、獣も、人も、少しずつ豊かになる。

地球採食とは、人間がただ自然からいただくだけの仕組みではない。人間が、食べることを通して、生態系のめぐりに参加し直す仕組みなのだと思う。

破壊者としてではなく、手入れする採食者として。

奪う種としてではなく、めぐりを増やす種として。

人間が、地球にとって迷惑な存在ではなく、いてくれてよかった存在になっていく。

その可能性が、食3.0にはあるのかもしれない。

◆「主食」と風景が、ゆっくり変わっていく

……と、ここまで書いておきながら、私の脳の一部が「でも、白いご飯が食べたい!」と呟いている。

白米は、農業の王様だ。種を選び、水を張り、田を守り、多くの生きものを支えてきた。おいしいに決まっている。

でも、もしかしたら未来の主食は、白米一択ではなくなるのかもしれない。

そのときに鍵となるのは、きっとおいしさだ。

地球や身体にいいから食べる。ちょっと味が落ちても我慢する。そんな食卓には、ワクワクしない。

でも、もし、どんぐりが、もちもち香ばしい団子になったら。トチが、ほろ苦くて深い甘みの粥になったら。栗と葛が、とろりと身体を満たす朝ごはんになったら。海藻と小魚のスープが、味噌汁みたいに当たり前に並ぶようになったら。

もちろん、いきなりそれだけで地球上の人間を養えるわけではない。けれど、森に鈴なりになる木の実を、驚くほどおいしい主食に変える技術が生まれるかもしれない。海藻や小魚や山菜や木の実を、日々の食卓に自然に並ぶ形へ変えていく加工や保存の知恵が、これからもっと育つかもしれない。

おいしさはモチベーションだ。

そうなれば、森や草原や海の手入れにも、がぜん力が入る。食が変わると、風景も変わる。何をおいしいと思うかが変われば、何を残したいか、何を増やしたいか、どんな森や草原や海辺を美しいと思うかも変わっていく。

杉やひのきだけの森ではなく、栗やクルミや椎の実がなる森。刈り尽くされた空き地ではなく、虫や鳥や人の食べものが重なり合う草地。そんなふうに、食卓から日本列島の景色が少しずつ変わっていくかもしれない。

縄文時代から人は、栗やクルミやトチやどんぐりを、灰でアクを抜き、粉にし、時には発酵させるような知恵で、滋味深い食べものへと変えてきた。白米とは別の、「お腹と心を満たす主食」があった。

アクを抜く。香りを立てる。粉にする。発酵させる。冷凍する。家庭の知恵も、料理人の技も、食品会社の加工や保存の技術も、全部使える。ばらつきのある自然の恵みを、「また食べたい」と思える形に変えていく。その挑戦の中に、これからの研究開発の大きな可能性がある気がする。

今まで忘れていた「ごちそう」を、現代の技術でもっとおいしく、もっと多様に楽しめる未来。食卓の豊かさが、その土地の風景の豊かさと呼応していく未来。

白米の隣に、森や海や草地から届いた「いのちの束」が並び、ある日、食卓の真ん中に来る。

今も時々、かつて大好きだった食べものに対し、身体が「あ、今はもう違うな」という静かな違和感を出し始めることがある。

こうした地のモノ、野山のモノをいただくようになると、その先には、土地のリズムに合った、驚くほど軽やかで健やかな、私たちの「野生」としての身体もあるかもしれない。

◆次の「いただきます」へ

いのちに近づくほど、世界はただ明るくなるのではなく、深くなる。

食べられるものを見つける目は、同時に、残すべきものを見る目でもある。摘む葉の向こうに来年の芽吹きが見え、魚の向こうに海の群れが見え、獣の向こうに夜の森が見える。足元の草も、庭の虫も、近くの海も、森の気配も、いつの間にか、ただの「自然」ではなく、自分の暮らしと地続きのものになっていく。

次の「いただきます」とは、食べられるものを増やす言葉ではなく、いのちの重みをより近くで受け取り、丁寧に分かち合う言葉なのかもしれない。

農業を経由したからこそ見える、次の「いただきます」。

地球採食、あるいは食3.0。

人類が「食料」と呼んできた境界線を引き直す話。

畑や田んぼの中だけでなく、草むらも、森も、海も、獣も、虫や鳥の営みも含めて、地球の生態系全体を、もう一度「食卓」として、社会全体で読み直していく話。

日本列島が、まるごと食料庫であり、同時に、無数のいのちのすみかでもある。そう見えたとき、食卓だけでなく、森や野原や海辺の風景まで変わっていく。

これまでの「育てる」農業技術から、「すでにあるいのちを、獲りすぎず、残しながら、おいしく分かち合う」地球採食技術へ。

観察技術:AI、生態系モニタリング、季節・群落・種の把握

選別技術:毒性、可食性、旬、採取適性の見極め

採取技術:ロボット、手仕事、残すためのルール

保存技術:冷凍、乾燥、発酵、塩蔵

加工技術:アク抜き、臭み消し、食感設計、おいしさ設計

流通技術:低温物流、地域別ストック、業務用・家庭用展開

コモンズ技術:誰が採るか、誰と分けるか、利益をどう地域に戻すか

倫理技術:何を残すか、人間以外のいのちとどう分かち合うか、生態系をどう豊かにするか

検証すべきことは山ほどある。でもそれは、やらない理由ではなく、これから問い続けるべきテーマだ。

そしてその先には、もうひとつの問いがある。

人間は、地球にとってどんな存在になれるのか。

生態系の輪の中に、私たちは生き物の一員として、どんなふうに入り直せるのか。

またでっかいこと考えてしまった。

だけど、はるか未来、人は子どもに言うかもしれない。

「人はね、長いあいだ、食べものを育てるために、森をひらいて、土を耕して、種を選び、水を引いて、地球との付き合い方を学んできたんだよ」って。

すると子どもは、草むらから戻ってきたコロボックルの籠をのぞきこみながら、こう聞くのかもしれない。

「え、でも、ここにも食べもの、いっぱいあるよ?」

そのとき私たちは、少し笑って、こう答えるのかもしれない。

「そうなんだよ。ずっとあったのに、食べものだって気づくまでに、ずいぶん時間がかかったんだよ」って。

10年、20年と時間をかけて、調査と検証と試食を繰り返しながら、私たち自身の食への認識を少しずつひらいて、50年後、100年後には、そんな世界へシフトしているかもしれない。持続可能で、人も、地球も、食も、大地も、腸内環境も、なぜかみんなで一緒に元気になっていく。そんな、いのちの共生と繁栄の未来。

そんなことを考えてワクワクしていたら、食のこと何も知らないのに、うひゃー、超長文書いてしまった💦

専門の方からは粗いところだらけだと思いますが、まずは直観を問いとして、置いてみました!

 

 

 

 

 

 

 

次回イベント告知です。

こちら↓は作家枠で参加です。

 

 

 

久しぶりに登場↓

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Hoʻoponopono

 

 

日々のお疲れ、特に頭脳疲労回復が得意です

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