Body Voice 加藤です

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流れに「まかせる」ことに罪悪感を持たなくても良いんだね


長い事攻撃的なことを強いと勘違いしていた

(周りを見ていると、今でもそう思ってる方が多そう)

 

強いのが良いってのも洗脳的な思い込みだよね

 

ちゅーことで、

チヒロサトさんのFacebookより転載させていただきます。

いつもありがとうございます。

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【弱さは、柔らかさだ】

 

アシュタルとコンタクトしていると、驚かされることが多いのだけれど、それは意識の次元が違うことから来ている。地球の三次元的な価値観からすると、悪いもののように思えるものに対して、アシュタルはとてもソフトな受け取り方をしている。私たちは悪いものを恐れて、それを排除しようとする。それが善いことで、強さなのだと思っている。だけど、アシュタルはそうしたものに対して、とても繊細だ。アシュタルの思考に触れていると、善いものも悪いものも、銀河のような光る粒子になって、空中を漂い始めるかのようだ。

 

たとえばアシュタルは、弱さについて、こう言っていた。

「弱さとは柔らかさだ。自分に対する優しさだよ。自分の弱さを抱きしめてごらん」

あの頃、私は自分の弱さに苦しんでいた。いや、私は強くあるべきだと思いすぎていたのかもしれない。自立していなくてはいけないとか、何でも自分でできなければいけないとか、誰かに依存していてはいけないとか、人の言うなりになって振り回されてはいけないとか、そういう価値観で、私たちは自分で自分を縛っていることが多い。それで私も、自立して自分の意志が通せていないのは弱さだと思い、強くならなくてはいけないのだと思っていた。


ところがアシュタルは、弱さは柔らかさであり、自分に対する優しさだというのだ。そう言われて、ふいに力が抜けた。弱くてもいいのだ。それは優しさなんだから。そして私は、自分の弱さを抱きしめる。それはとても繊細で柔らかく、暖かい。自分を愛するとは、こんなことだったのだ、と私は思った。自分を愛するとは、自分は優れているのだと思おうとしたり、自分のために高い出費をするようなことではなかった。そんなことは結局のところ、自分の価値をお金社会の基準で測って、高く売ろうとすることにすぎなかった。自分を愛するとは、そんなことではなく、もっと繊細なことだった。ただ自分の弱さを抱きしめるようなことだったのだ。

 

私たちは、強さという概念によって、自分に何かを無理強いしようとする。しかし、弱くてはいけないという理由で、自分に何かを強いるとき、自分の中が二人の自分に分裂する。無理強いしようとする暴君の自分と、無理強いされる奴隷の自分とにだ。それで、暴君の自分が、奴隷の自分をこき使い、劣等感を感じさせている。こんなパワーゲームを、私たちは無自覚に自分自身の中でやり続けてきたのだ。そしてそれを、強さだと思っていた。ところが、自分の弱さを抱きしめるとき、二人に分かれて争っていた自分が、一つになる。そして、自分に対するその愛が、すべての細胞を満たし始めるかのように、暖かさと優しさとに包まれる。

 

「君は強くなりたいの? 強くなることが硬くなることだと君は思っているだろ? 弱さは強いんだ。柔らかな強さだよ。それは硬さよりも強い」そう、アシュタルは言う。

何故、弱さが強いのだろう? それは矛盾しているように思える。しかし、自分の弱さを抱きしめたとき、不安に震えていた自分は、暖かくなり、愛に満たされる。それは確かに、強さと言えるのかもしれない。

 

私たちは、強さと硬さとを混同していたのかもしれない。強さとは、譲らないことであり、自分の意志を押し通すことであり、人や物や状況を自分の意志に従わせることだと思っていた。しかし、こうした概念は、支配の構造から来ているものにすぎなかったのかもしれない。支配する方が支配される人間よりも強いのだ、という上下の意識から来ているのだから。だから私たちは、支配する側であろうとして、より強くあらねばならないと思い、より高くあらねばならないと思っていたのだ。

 

支配する側であろうとし、より上の人間であろうとして強くなろうとするとき、私たちは硬くなる。硬くなると、自分の中に従わせる強い自分と従わされる弱い自分とが分裂して存在し始め、争い始める。こんなことを、私たちは強さだと思っていたのだろうか? 自分の中がつねに戦闘状態で、だから自分のまわりにも戦闘状態を創造し続けているようなことが? それは、いつも戦争をしている国が強い国なのだと思い込むようなこととも似ているようだ。

 

自分の弱さを抱きしめるとき、私の中のすべての部分が、柔らかくなり、繊細になり、自分がまるで銀河のような光の粒子でできているかのようだ。それは、ありのままの自分であることそのものであり、そのままの自分を、そのままの世界に開いていることだ。何も隠すものもなく、何も構えることもなく、何も恐れるものもない。それこそは無敵な状態だ。

 

どちらが強いかで争うのは、三次元までのことなのだと思う。物質的なものだけが存在していると考えたとき、支配している方が強いように見える。ところが、意識の領域が視界に入ってくると、支配している人間は、分裂していて、恐怖によって支配されていることがわかる。意識の次元が視界に入ると、支配する者は、同時に支配される者だということがわかってしまうのだ。人にしていることは、自分自身にもしていることだから。因果応報とは、意識の次元では、まったく同時に起こっていることがわかる。意識の次元でみたら、人にすることは、同時に自分自身にもしていることだというのが、はっきりとわかる。


無抵抗であるということは、実は最も強い。意識の領域では、念を飛ばされるというように、意識エネルギーの攻撃を受けることがある。呪いだとか怨念だとか言われているようなものだ。これには、呪いをかける方の黒魔術的な呪術師と、呪いを解く方の白魔術的な呪術師とがいて、戦っている。呪いを解く呪術師たちは、結界を張るようなことをして、攻撃的な意識エネルギーを無化したりするのだけれど、実はもっと簡単で確実な方法がある。それは、無抵抗で受け留めてしまうことなのだ。

 

これは、意識の相対性ということが視界に入ってくる7次元以上の次元になると、その通りなのがはっきりとわかると思う。それは、その次元になると、現実というものは、それぞれの人の意識が作り出しているものだということがわかるからなのだ。呪いの原理というのは、実はこのことを利用している。呪いをかけたい相手に、呪いをかけられたということを意識させると、その人は自分からその通りの現実を作り出し始めてしまうのだ。だから、呪いを恐れていない相手には、呪いをいくらかけても、効かない。だから、このことを知っている呪術師は、結界を張ったりする代わりに、「呪いは解けました。もう大丈夫です」とほがらかに笑って言うのだ。それで呪いをかけられた相手が安心したら、もう呪いはかからない。

 

だから、どこかから攻撃が来るような不安感を感じたときは、しっかりグラウンディングした上で、「何者も私を傷つけることはできない」と自分に言って、その攻撃的な力を無抵抗で受け留めると、その力は攻撃的であることをやめてしまう。これはやってみるとわかるけれど、まるで身体を素通りするように入っていって、後ろから出ていってしまうのだ。そして通っていくときに、自分の中の恐れや不安、罪の意識などのモヤモヤした感情も持っていってくれるのがわかる。害を受けるのは、実は自分の中に抵抗があるときだけで、抵抗さえなければ、害を受けることはない。これを体験すると、無抵抗がいかに無敵かということが、実感としてよくわかる。

 

恐怖に駆られると、私たちは硬くなる。防衛しようとして、身体に力が入る。そうすると、攻撃を引きつけるのだ。それは、意識が現実を作っているからだ。攻撃から身を守らなければならない、と恐怖に駆られていると、その通りの攻撃を引き寄せる。そして、攻撃に抵抗しようとして、害を受けてしまう。

 

事故に遭ったときに、反射的に完全に放棄してしまうような心境になって、全身の力が抜けたために、奇跡的にほとんど無傷で助かったというような人が、現実にいる。しがみついたまま死んでいきたくないと思って、ふっと力が抜けたのだそうだ。抵抗がなければ、害を受けないのだ。受けた衝撃も、身体の中を素通りしていってしまうのかもしれない。そうやって奇跡的に助かったような人は、何かを恐れて構えるのを、すっかりやめてしまったりする。あれこれの危険に備えて、予防策を講じたりしなくても、何かもっと大きな力に守られていることを、知ってしまうからなのかもしれない。

 

私たちは、こういう危険に備えて、こうしなければならないとか、あれこれのことを思い込まされていて、実のところはそれによって、かえって害をこうむることになっていたりする。火傷のときは水で冷やすのだと思い込んで、ジャージャー水をかけていると、実は火傷はかえってひどくなって、大きな水膨れができたりする。火傷のときは、温めた方がいいのだ。少なくとも、水で冷やすくらいなら、何もしない方がいい。火傷した部分は熱くなっているけれど、そうすると血流が刺激されて、免疫システムが活性化する。その力がよほど効果的に火傷の箇所を冷やして、壊れた組織を修復してくれる。


何もしないで無抵抗でいると、もっと大きな力が働くのがわかる。私たちの身体でも、人間関係でも、自然環境でも、自然にバランスを取り戻そうとする力が働いている。そして、多くの場合、私たちは抵抗しようとして、その力に逆らって動いている。だから、自分で何とかしようとして、あれこれとがんばるのを放棄して、あきらめてしまった瞬間に、急速に事が収まっていくことがある。「手放した瞬間に流れに乗る」ということが、この頃よく言われているけれど、あれはまさにそういう原理で起こっている。抵抗するのをやめると、攻撃を引き寄せなくなるからだ。

 

弱さについて、アシュタルに教えてもらっていた頃、私はまだこうしたことをわかっていたわけではなかった。アシュタルとコンタクトを始めた10年前から、私は光と闇とを統合するということを、少しずつ学んでいたのだと思う。それはまさに、戦うのをやめて、もっと大きな力を知り、それを信頼することを学ぶプロセスだったと言える。この200年ほど、世界は国際金融資本家たちに支配されていき、すべてが支配する側とされる側に分かれて、戦い続けるようになっていった。それで私たちは、絶えず自分の思うようにしようとして、身も心も頑なになって、結局そのことによって、支配されてしまっていたのだ。

今、世界で一極支配の構造が崩壊して、多極的な世界の調和ができていこうとしているけれど、それはまさに、支配しようとするのをやめたときに、もっと大きな力が動き始めるということと似ているようだ。そういう世界がだんだんと目に見えるような形になってきて、あのときアシュタルから受け取ったことが、こういうことだったのだとわかり始めているのかもしれない。

 

「地上は荒れ狂う嵐。

それでいいんだ。

制御しようとするな。

流されろ。

ゆだねてしまえ。

己の弱さを認めるんだ。

弱さとは、すばらしいものだ。

それは柔らかさ。

大きな愛だ。」

 

ー 2014年に受け取ったアシュタルからのメッセージ

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画像は、2017年7月にイギリスにできたクロップ・サークル

 

テキストの画像のようです







Hoʻoponopono

 

 

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