Body Voice 加藤です
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裸足で歩く自由
はだしで街を歩いていると、ときどき声をかけられます。
「危ないですよ」
「靴、どうしたんですか」
「足裏汚れませんか」
心配してくれているのだと思います。
ただ、何度もそんなことを言われるうちに、
その声の奥にあるものが少しずつ聞こえるようになりました。
それは安全や衛生の話というより、
「そういうことはしてはいけないことになっている」という感覚に近いものです。
誰が決めたのかはわからない。
法律に書いてあるわけでもない。
それでも、はだしの人を見ると、なにか規則を破っている人を見たような気持ちになる。
この感覚がどこから来たのか、
ここ数年ずっと考えています。
日本人はもともと、足裏で地面を知っている民族でした。
田んぼにはだしで入り、
草鞋や下駄で山や街を歩き、
家に上がれば素足で暮らしていました。
足の裏は、汚れるものではなく、働くものでした。
それが変わりはじめたのは、海の向こうから黒い船が来たころからだと思います。
自分たちの暮らしを外の目で見るように求められ、外の目から見て恥ずかしいとされたものを、ひとつずつ手放していきました。
明治のはじめには、往来で肌を見せることが取り締まりの対象になりました。
外国と肩を並べるためには、見られて恥ずかしくない身なりにならなければいけなかった。
戦争に負けたあとも、同じことが今度はかたちを変えて繰り返されたように感じます。
そのたびに、私たちは自分の体の感覚よりも、
どう見られるかを優先することを覚えてきました。
私はこれを、植民地根性と呼んでいます。
誰かに直接支配されているわけではないのに、見えない誰かの目を内側に住まわせて、その目に合わせて自分を整え続ける。
靴を履くことそのものが悪いわけではありません。
ただ、靴を脱ぐことにこれほど許可が要る社会は、どこかで自分の足を自分のものと思えなくなっているのかもしれません。
もうひとつ、気になっていることがあります。
はだしになりたいと思っていない人は、たいてい、はだしになる人に厳しい。
自分は靴を履いていればそれで済むはずなのに、はだしの人を見ると、やめさせたくなる。
自分がとうの昔に手放してしまったものを、いまもまだ平気で持っている人がいると、落ち着かないのだと思います。
それは意地悪というより、長いあいだ叩かれ続けた人の、身を守る癖のようなものなのでしょう。
だから私は、声をかけてくる人を責める気にはなれません。
かつての自分も、同じ側にいたから。
はだしの自由は、思想ではありません。
朝の芝生がひやりと冷たいこと。
夏のアスファルトが思ったより熱いこと。
砂利道で足裏が勝手に力を抜いて、体ごと地面に合わせていくこと。
その一つひとつを、誰の目も気にせずに受け取れること。
たったそれだけのことが、この国では長いあいだ、許されていないことのように扱われてきてしまいました。
無理に靴を脱いでほしいとは思いません。
脱ぎたくない人は、そのままでいい。
ただ、脱ぎたいと思った人が、見えない誰かの許可を待たなくてもいい世の中には、最低でもなってほしい。
足の裏が地面を思い出すと、体のほうが先に、もう元には戻らなくなります。
その人がひとり、またひとりと増えていくのを、私は急がずに待っています。
今日もはだしで歩きながら。
Hoʻoponopono
日々のお疲れ、特に頭脳疲労回復が得意です
からだの癖や使い方による疲労、メンタルやエネルギー面も含めたトータルメンテナンスです
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