オオミズアオと名前の分からない蛾。
あまりに寝相が一緒で写真に収めてしまいました。
朝からほのぼの始発でお出かけです。
最近腎臓を痛めて背中が痛くて大変です。
ガングリオンも完治してないし、
18歳になった時には体がめためたになってそうです。
今から帰ります。
4時起きなので割としんどいです。
行かないと分からないものがたくさんあるし、
分かっていたものにも自信が持てます。
そして、私はますます分からなくなりました。
私にとっての良いことが他人にとっての良いことではないし、
他人にとっての良いことが私にとっての良いことではないです。
それは当たり前のことだし仕方ないことです。
でも、
私にとっての良いことが、必ず悪いことだとは思いたくないです。
私にとっての良いことは、
私にとっての大切な人との関わりから、
少しずつ作ってきたものです。
正論ではないかもしれないけど、
それが今の私にとっての良いことである以上、
正論かどうかは関係なく、それを信じるしかないわけです。
そして、信じているものが崩れる感覚は、とても嫌なものです。
私にとっての良いことが崩れる感覚は、とても嫌なものです。
私はずっと何かを決める時には自分の感覚を頼ってて、
自分の感覚とはつまり自分にとっての良いことを達成するための感覚で、
それに従うことでなんとか物事を決めたり考えたりしていたわけです。
もう感覚に従って考えても、
それは他人にとっての良いことでないのなら、
私には感覚に従って考える意味はないし、
感覚に従わないで考えた私の考えに、何かの意味があるのか判断できません。
他人に言われた良いことを、
自分の良いことに重ねて修正するのは簡単だけど、
自分の感覚とずれていることにはやっぱり私は賛成できないんです。
私の感覚は常にぶれながら修正されてきたけど、
そこまで柔軟にもできていないみたいです。
ぶれの範囲はやっぱり私にとっての良いことの範囲でしかなくて、
他人の良いことを受け入れられるほど大きくはぶれていないみたいです。
もっとぶれていてくれたらいいのに。
素直に他人の良いことに感動して共感したいのに、
私の感覚が反発してうまく笑えなくなります。
学校や教師や宗教や政治やいろんな正論に感じているのと同じ反発が、
私の反発が、私を守るために私を嫌にします。
私にとっての良いことは、
たいていの他人にとってはどうでもいいことです。
私にとってのどうでもいいことは、
たいていの他人にとっての正論です。
そしてたいていの他人の反発は、
私を特に反発させないし、
たいていの他人がタブーにしていることも、
私にとってはどうでもいいことです。
それらを無視してうまくやることが私には難しいです。
