人は一生のうちにたくさんのことを学び,いろいろな経験を経て知識や知恵を身につけていくが,そのほとんどは,自らの学習によります。
教師の仕事の多くは,子どもたちにいかに学ばせるか,学び方を身につけさせ,学ぼうという意欲をつけさせ,その学びを助言・援助していくことになります。
教師や親から教わるものが,あらゆる事柄の基礎的・基本的な部分で,その他の多くは自らの力で学びとっていく。つまり、教師が生徒に与える影響というのは、とても大きいものだ。
世間では、高校生であればこのくらいの社会レベルだろうと、一概にこうあるべきだと判断する傾向があるが、教師はそのような判断をしてはならない。体は高校生であっても、心・考え方はまだ中学生である人もいれば、大人びている人もいる。教師は生徒たちひとりひとり違うということを意識しなければならない。教師は何かしら模範するものがある。模範する像をこのような状況の時にはこのような教え方・指導方法がある、ということをそれぞれ教師は持っています。その指導力が教師の力である。教師としては自分を模範にして、自分と同じようになるように教えている教師が、こうすればこうなるという絶対的なものは存在しない。わたしはこうしたらできたのだから、きみもこうすればできるよ、と言われても、それはアドバイスにすぎず、決して解決方法を提示したわけではない。解決方法は人それぞれ違いがあり、みんながみんな解決できるわけではない。
たとえば、1時間授業すればこれだけの量を理解するだろう、ということ。しかし、実際生徒は理解できる人もいれば理解できないという人もいる。理解する方法や物事への捉えかた自分と同じだと思って指導する教師がいるが、自分の解決方法、つまり理解の仕方を一方的に教えつけるのは教育ではない。
私が教わってきた先生たちはほとんどひとりひとり違うということを意識していなかったように思える。生徒の様子を少しも伺うことなく、黙々と黒板に向かって授業する先生や、しゃべり通して1時間つぶす先生などがいた。これは文系の先生に集中していることから、文系の科目が嫌いになってしまったのかもしれない。理系の科目はどの先生でも演習などがあり、授業中は学びやすい環境だった。演習をすることにより、教師が生徒の出来具合を判断することができ、生徒側も作業しているので授業に参加しているという意識が強まる。教師と生徒の相互のコミュニケーションが必要。意識することはいいが、ひとりひとり違うということを差別として考えてはいけない。生徒はみな平等でありながらも、違いを意識し、また、生徒の立場を常に意識し,物事を判断することが重要となってくる。そして、生徒にとって居心地の良い環境を教師は提供する必要がある。
物事を教える立場に立っている教師がしっかりしていないと、生徒はしっかりした大人になれない。