倫理学入門レポート通学する際は電車を使い、いつも立ちながら寝ている。今日もいつもと同じように手すりにつかまって寝ていた。停車駅で目を覚ました。すると、私の隣でしゃがみこんでいる人がいた。心配になったので声をかけてみると、具合悪そうな顔をしながらもしっかりした声で”大丈夫です”と返事をした。私も電車内で貧血に襲われ床にしゃがみこんでしまったことが一度ある。しゃがみこめば多少楽になる。その時の私の状況と似ていた。このとき、第三者がしきりに声をかけて過剰に心配しているようにすると具合の悪い人は逆に申し訳なく思ってしまうので、私は”大丈夫か”、”無理しないで駅に降りたほうがいいよ”と少し声をかける程度にし、あとは本人の意思を尊重した。前置きが長くなりましたが、私がその場に居合わせて思ったことは、なぜ私しか具合の悪い人に声をかけなかったのか、ということだ。私は謙虚で恥ずかしがりな性格なので、赤の他人になど声をかけるということは苦手である。しかし、明らかに困ってそうな人には声をかけるなど助けてあげるべきである。声をかけなくても座席に座っている方は席を譲るなどできたはずである。これから高齢社会を向かえ、お年寄りに声をかける機会が増えるだろう。このような声をかけることは非常に重要なことではないだろうか。しかし、誰も譲ろうともせず、私以外声をかけたりしない。自分のこと以外にはまったく見向きもせず、困った人がいても平気でほっといてしまう。やはり、日本人は冷酷だな、と思った。こういった、”自分のこと以外にはまったく見向きもせず、他人にはかまわない”人が多い。ひどく言ってしまうと、”自己中心的”な人が多い世の中になってしまったのではないでしょうか。また、電車という世界へ目を向けてみる。いまだに車内で通話している方や、気分が悪くないのにドア付近の床に座り込む若者、整列乗車するこが暗黙の了解であるが割り込んでくる中年の方など、自己中心的な方が様々いらっしゃるが、このような方を不愉快に思う方は大勢いる。また、電車の遅延などにより乗客が鉄道会社職員へ暴行する事件が年々増加しているそうだ。なぜこのような自己中心的な方が増えたのかを考えてみた。私は5月下旬から6月中旬まで母校の高校へ教育実習に行っていました。私の担当の先生は”生徒指導”がしっかりとした方で、褒めるべきところは褒めて、叱るべきところはしっかり叱る、というような、メリハリがきちんとしていた。そんなに頭がいい学校でもないのだが、その担当の先生のクラスはとてもしっかりしていて、先生の指示にもしっかり従う。統率のとれている理想的なクラスである。先生と話をしていると、このような生徒指導を徹底し、しっかりしたクラスは少ないというのが現実である。一昔前は体罰的なもので統率できたものが、今はできない。しっかりしたクラス作りができる先生は数少ないのである。社会に入る準備をする学校でもあると思うが、学校で何も学ばず自由奔放に過ごす生徒が多いだろう。また、家庭での”しつけ”も問題のひとつだろう。最近では、子供の自由にさせる、という家庭での教育方針が存在する。子供の自由にさせるというこうとは良いが、間違ったとらえかたをしている親が多い。例えば、子供のころに好きなものは好きなだけ自由に買い与える。すると、お金のありがたみが分からなくなり、強請ればなんでも物が買えるというような観念が身についてしまう。こういった教育が原因で、思ったことはなんでも通るという子供が増える。つまり、自己中心的な考えを持つ子供が増える。では大人たちの原因はどうだろうか。最近では景気が回復に向かっているということだが、一般庶民は実際金銭的に豊かになったかとか、心が豊かになってきたか、というのは極少数の方だけであって、ほとんど変わってない。コンビニエンスストアでアルバイトをしており、常に笑顔と敬語で丁寧に接客しているつもりだが、客の中にはどうでもいいところでキレたり、やたらに急かしたりする方がいる。実際社会と触れ合っているのは、このアルバイトをしているときぐらいである。これは世の中にストレスが蔓延している結果ではないかと考えた。学校の生徒指導に力をいれ、親は正しい知識を持ち家庭での教育をしっかりとさせることが子供のためになり、一刻も早く景気が回復したといえるような世の中になることを願うばかりである。