愛を示す相手もいなければ、円滑にしたい人間関係もない。
とはいえ、日本独自のバレンタインデーに縁のない人生も、毎日こつこつ働き、自由になる金ができてからは少し事情が変わってきた。
夕方のニュースで組まれるバレンタイン特集を観ながら、実物を頬張る。
そのささやかな夢を、まさに今、叶えているのだ。
膝小僧の前のガラステーブルには、6つの有名ブランドが作った傑作が、それぞれの意匠を凝らした箱に収められてしずしずと待ち構えている。
手始めに、箱の蓋をすべて取り払った。
甘いカカオの香りがやわらかく拡散し、深呼吸をするまでもなく肺を満たす。
見かけにいたっても、ジュエリーのごとくガラスケースのなかに鎮座していたときよりか、ずっと食べものらしい。
いろんな形、いろんな茶色、いろんな味。
どれから食べてもいい。
どれだけ食べてもいい。
そのために買ったのだ。
混みあったデパ地下で、店員が待ちあぐねて声をかけてくるまで、充分に時間をかけて選びあげて。
まず、同じものが2コずつあるという理由で、派手なピンクのアルミホイルに包まれた一粒をつまんだ。
画面では、去年有名になった動物園のレっサーパンダをかたどったクッキーを紹介しているが、かまわない。
手元の包みを丁寧にはがすと、ホイップクリームを絞り出したような形のチョコレートが頭を出した。
ゆっくり舌の上で溶かすつもりだったのに、半分齧ると、中央に詰まっていたブランデーの味があっという間に味覚を刺激し、噛まずにいられなくなった。
残り半分も口に放り込んで、奥歯にまとわりつくチョコレートをひきはがすようにして顎を動かす。
ソファで前屈みになっているのがきつくなり、お尻を床に落とした。視界の3分の2をチョコレートが占めるようになる。
テレビは一粒1000円のトリュフを映している。
その5分の1ほどの値段のトリュフをつまんだ。
生まれてこのかた、庶民の味しか知らないのだ。一定の値段を越えれば、味の違いなど分からなくなるに決まっている。
硬度の違うチョコレートが順々に砕け、混じり合って食道を流れた。胃の中でボンボンの上に落ち着くのを感じる。
もう、順番などどうでもよかった。
自分の肉厚の手が産業ロボットよろしく活発になったのを、頭のどこかで冷静に非難しながらも止められない。
チョコレートの洪水を唇でなんとかせき止める。
どうせ一人きりの部屋だ。どんな顔をして食べていようが、誰も気にしない。
今後2週間の楽しみに取っておくなんて、ケチな真似はしない。
出費の対価は、全部食べてもいい開放的な喜びだったのだ。
息苦しくて、ソファに寝そべった。
空になった箱を横目に、満足感に浸ることはなかった。
胃もたれは半分食べたあたりで始まったが、それでもすっかり食べてしまわずにいられなかった。
さらに今自分を打ちのめす罪悪感、自己嫌悪を考え合わせる。
もちろん出費と釣り合わない。
よけい鏡が、外出が疎ましくなる。
マイナスしかない。
この経験は直近2週間以内にもあった。
節分の日。
太巻を7本食べた。
節分の日に食べる食べものを作ってしまった以上、冷蔵庫ではなく胃にしまう、というのが、彼女の願望と同じベクトルを向いた体の良い考えだったのだ。
その前の自分の誕生日にはホールケーキをひとつ食べた。
消費期限が迫って安くなっていたのだ。
その前の年末年始、クリスマス。
思い出すうちに愉快になる。
すぐにそれは自虐的な快感だと悟り、ふたたび身体がソファに重く沈んだ。
わずかな胃液とともにカカオの香りがするげっぷが出る。
カカオなど2度と嗅ぎたくないと思った。といっても、1週間後にはおやつに板チョコレートを食べるだろうし、食後にココアも飲むだろう。
なぜやめられないのだろう。
満腹中枢は働いている。
胃を満タンにしても機械的に食べてしまう。
病気でもなんでもない、ただの悪癖なのだ。
だらしがないからいけない。
理性が発達していない大人の女だという自覚が、自分の丸い醜い身体が暗くじめじめした社会の淵に追いやられるイメージを想起させた。
私のような人間は、食糧危機にでもならなければきっとどうしようもないのだ。
自分ではどうにもできない抑制を受けなければ。
日本の平和が恨めしかった。
番組はとっくにアニメの放送にバトンを渡している。
寝転がったままリモコンで電源を切った。
瞼が重い。
振動に目を覚ました。
五十メートルほど近くに高架が通っているせいだ。
上半身を起こすと、窓の外は暗く、胃の圧迫感はなくなっていた。
喉がねばつき、歯がざらつく。
振動はまだ続いていた。15両編成の電車が走り抜けたにしては長い。
揺れは少しずつ大きくなり、食器棚ががちゃがちゃ騒ぐ。
地震だ。
照明から下がった紐が時計の振子のように忙しなくブランコし、外では雨戸ががたがた壁を叩く。
誰かの悲鳴が聞こえた。
ガラスが割れる音。
電気が消えて、何も見えなくなった。
何もかも瓦礫に埋もれてしまう。
死ぬかもしれない。
もし助かっても、避難生活だ。
首都が機能しなくなれば、物資は明らかに足りなくなる。
食糧も足りなくなる。
激しい横揺れのなか、弾けるようにソファを飛び越え、倒れてくる本棚をかわしてキッチンの戸棚にたどりつき、スナック菓子の袋を力いっぱい開けて中身を貪り食う自分を、彼女は止めることができない。