YouTube、ニコニコ動画、Twitterなど、ネットメディア全般に接して来て思うのですが、最近は特に若い世代同士で、作品に対する感想を述べるとき、良いところしか言わないようになって来ていると思います。

 

このことは、僕は基本的に良いことだと思っています。

それぞれ、別に批評家ではないからです。

一番良くないのは批評家気取りで、気に入らない箇所をさも普遍的な欠点のように指摘することだと思っています。

 

例えば、ニコ動では年に何度もボカロイベントがありますが、何千人も作品を投稿するのに、批判的コメント(時にヘイトに発展する)が飛び交っていたら、良い盛り上がり方をしないと思うんですね。

 

一昔前は、音源作品を世に出すことが批評に晒されるということでもあったと思うのですが、昨今のネット社会の或る領域においては既にそういう性質は薄くなっており、創作物を投稿すること自体に敬意が払われる傾向を感じます。たとえ技術的に拙くても、そこは本人の課題なのでわざわざ直接言う必要はないという雰囲気があります。それよりも、作品の魅力を見出してコメントすることが、ボカロイベントなりシーンを良く盛り上げることに繋がっているというふうに思います。

 

そのように感じられる状況を踏まえてですが、僕はと言うと、時には厳しい意見をいただくことも受容するつもりでいます。自身の成長に繋げるためです。

ただ、僕も一介のアーティストなので、その時々の価値観や信念があり、そこを侵す意見(或いは妥当と感じられない意見)に対しては反論もしますし、噛みつきます。内省的であろうとすることに留意はしますが。

これまで、リアルでもネットでも幾人かに噛みついて来ました。何ぴとであっても、侵されれば噛みつきます。

他者の嗜好や操作性に阿ってはいけない自分の領域があると思うからです。あまり腹に据えかねると、気に入らないならお前が自分の気に入るものを作れ!それをしないなら黙っとけ!ぐらいまで言うこともあります。

 

なので、僕の作品にネガティブに物申す人は、噛みつかれる覚悟をしていていただく方が良いかもしれません。受容するかどうかは僕が判断します。

そもそも、他者の自己課題に介入するということ自体が、覚悟の要ることだと考えています。僕自身、余程のことでない限り、他者の自己課題に介入はしません。した時期もありますが、今は反省して軽々にはしないようにしています。

 

よく、特に年配の方から、僕の作品や活動の在り方について「君のためを思って言っている」と言われることがありますが、余計なお世話も甚だしいです。何の責任も負う気がない人ほどそういう事を言います。自分の好みの押し付けでしかないと僕は感じます。まだ妥当な意見なら良いのですが、的外れに思えることの方が多いのです。

人にはそれぞれ自己課題があり、それに気づくこと自体も自己課題です。自分の人生を歩めるのは自分だけであるし、他者の人生を背負うことなど到底できないからです。おいそれと踏み込むべきではないのです。

 

自他の課題の分離を認識することはとても大切だと思います。

 

その観点に立つと、世の中の「批評」というジャンルが廃れつつあるようにも感じられ、時代の趨勢なのかなと思うことがあります。

昭和から平成にかけては、文芸にしろ、音楽にしろ、批評というものがそれなりに大衆に受容されていたように思います。

が、昨今は批評に要請されるスタンスの在り方が変わり、批評そのものの需要が少なくなっているような気がします。

その辺りについては、東浩紀氏が何かの著作の中で言及していた気がします。彼は批評という領域について長らく熟考してきた人物の一人だと思います。

 

思うに、批評には不遜な要素が潜み易く、僕の所感ですが、昭和のいわゆる全共闘前後の時代には、鋭い批判をしてナンボといった雰囲気があって、それが濃淡はありつつも平成まで続いていたように思います。選ばれた知識人が紙の活字文化を形成しており、それが言論の全てだったからのように思います。そのように感じられるのは、その時代を生きてきた世代の人々がその雰囲気を纏っているように思うからです。

 

しかし、ネットが普及すると、誰でもが簡単にパブリックに物申すようになりました。言論の敷居が下がり、程度の低い罵詈雑言と混ざり合い、一見鋭い批判も、論理的強度の低い中傷と区別がつきづらいものが多くなったように見受けられます。Twitterでは哲学者に一般人が程度の低い批判を直接ぶつける事象も散見されます。勿論、ほとんどは無視されていますが、テクストの読解力が低い人もガンガン意見をぶつけることが物理的に可能な状況があるということです。

また、批判と人格否定(中傷)とが人々の間で峻別されないケースが増えているようにも感じます。ごっちゃになっていると。

 

そのような状況がある一方、YouTubeやニコ動やTwitterなどで市井の人々やプロクリエイターが投稿する音楽やイラストや漫画などの作品に対して、若い世代の人々の間でポジティブな感想(心にもないことではない)を述べるのが作法のようになっていると僕は感じます。

最前にも述べましたが、僕は昨今のネット社会においてそれは良いことだと思っています。パーソナルな領域がパブリックに露出しているという相に対して、個々人の課題の分離が意識され、前提としての敬意が払われているように感じられるからです。

 

では、或る分野における熟練者が初学者に対してアドバイスする必要はないのかというと、そうではないとも思います。人を介しての技術や知識の継承も大切だと思うからです。

その場合は、熟練者が不躾に上から物を言わないことが求められる時代になってきていると思います。基本的な人格の尊厳に対する敬意を払うという意味において、両者は対等だからです。

人生の先輩は垂直面の上に居るのではなく、水平面の前に居るに過ぎないと思います。上下関係ではなく、前後関係。それが封建社会の名残りを廃して、より民主的社会に近づくためにあるべき人間関係の指向性ではないかと思っています。

 

だから、僕はギターの初心者の方にアドバイスを求められた場合も、絶対に偉そうな物言いはしないようにと気をつけています。それでも、今の言い方は失礼だったかなと自分の未熟さを反省することはあります。そういったことはずっと課題としてあり続けると思います。

 

とまあ、出来るだけ理性的であろうと思う僕ですが、アーティストとしては必要と思えば噛みつきます。

 

 

以上