そのまんまで生きていくということ。 | small planet

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日々の散文。
もしくは 独り言。

それぞれの思いがあって、それぞれの生き方がある。


私は、他人に馴染むのがあまり得意ではない。目立つことも誰かの先頭に立つようなことも極力したいと思わない。

無気力なわけではないのだが、人の視線を浴びることが好きではないのだ。

なのにそんな私は、ホームに住まわる人たちの生きる姿だけは多くの人の前で話たいと思ってしまう。そのことだけは多くの人に聞いてもらいたいと思う。


先日、あるおばあちゃんの娘様が来訪した。

この半年間、この娘様と何度か話をしてきた。


「思い出が消えてしまう・・・」 そんな風に婆ちゃんが泣いた。


婆ちゃんにとっての諸事情にて家族はバラバラに暮らしてきた。

若かった娘様は、そのことで大変なご苦労をしながら暮らしてきたそうだ。

それが随分後になって、婆ちゃんと再会し婆ちゃんの面倒を見ることになるのだが、複雑な思いを抱えてきたそうだ。

「頼りたいときにお母さんはそばに居てはくれなかったのに、なぜ今になって私が面倒を見なくてはならないのだろう・・・」

そんな風に感じていたそうだ。

「認知症になって色んなことを忘れて、ホームではいつも楽しそうに笑っている。昔のことなんか忘れてしまって案外楽しく暮らしているのだろう。」

そう思っていたそうだ。


婆ちゃんが家族のことばかりを気にして泣いてばかりいるようになり、

私はすぐに娘様に連絡を取った。

娘様に事情を話すと、理解してくださり数日後にホームに来てくださった。


話しにくかったであろう家族の事情を包み隠さず話してくださった。

そのことがとてもありがたかった。


そして先日のこと。


ここ最近の様子を報告していた。その時に娘様がいった。


「思い出が消えちゃうって言ってたことを今でも考えてしまうの。気楽に楽しくやっているってずっと思ってたのに、本人は本人で辛い思いして苦しんでたなんて思いもしなかったの。」


そして、最後に思い出して心の支えになっているのが娘様本人だったと分かったとき、自然と心のわだかまりが溶けた気がしたそうだ。


そして、ここに決めて本当に良かったといってくださった。


ここに来なければ、本当のお母さんの気持ちを知らずに過ごしていたかもしれないということなのだろう。


婆ちゃんは、三人いるお子様のうち、いつもこの娘様を思い出す。


話し込んだとき、叙情的にかつ感情的に昔の話をするのだが、娘様をおいて家を出たくだりになると「わからない、思い出せない」と強く訴えて決して話したがらない。無理に聞き出すことはせず傾聴のみしか行わないが、その様子を見る限りでは、婆ちゃんはちゃんと覚えているような気がしている。


だから私は切なくなるのだ。

婆ちゃんは埋められない時間と、思い残すこと、その事実があるからこそ

この先の人生に悲しさがあるのだろう。

『娘がいなくなったら、私は本当に一人になってしまう・・』

そう思うのかもしれない。



婆ちゃんが以前言っていたのだ。


『あんたのお母さんは、あんたが生まれてくるときに決めていたんだよ。ああ、絶対にこの子を産もう。この子だってわかっていたんだよ。私も、私の娘を産む時には、絶対この子!って決めていたの。」


娘様にこの話はしていない。


婆ちゃんは、娘様に想いを伝えずにいるのかもしれないと思う。

やり残していることがあるのかもしれない。


今その時が来たのかもしれないと思う。

これは、私の憶測に過ぎないが・・・。


そういう生き方すべてを受け入れて支えたいと感じる。

病気だとか、なんだとかはどうでもいい。


思い出が消えていくのであれば、それに見合う思い出を作ることをお手伝いするか、もしくは覚えていられるように手伝えたらいいのにと思う。


そして娘様にとっても良き思い出が増えていけばいいのにと思うのだ。




今日は、そんなことをふつふつ考えていた。