今回も下記写真の通り、2014年12月5日に掲載した「TV東京・Nアンサー」の再掲載となります。

 

2014年12月5日の当欄

 

TV東京の報道から電話が入ったのが(2014)11/24の15:00頃でした。

「日本洞穴探検協会」が秩父市の鍾乳洞で、ニホンオオカミの下顎の切歯を発見したので、明後日埼玉県庁で記者発表する。

県内の鍾乳洞では最初の事例だそうだが、どの様に思うかコメントが欲しい・・・・・そんな内容だったと記憶しています。

私は即座に「浦山の橋立鍾乳洞や横瀬でも出土されています。

群馬県だが隣りの上野村では多くの出土例が有るので、珍らしい事では無いですし、秩父の山の多くは武甲山に代表される様に、石灰岩で出来ています。

鍾乳洞に潜ればそうした事例は多くなると思います。」と答えました。

 

一端電話は切られましたが数分後に再度ベルが鳴り、明日25日山に入って取材をさせて貰えないか・・・と、話は違った展開になって行きました。

翌日も明後日も雨模様でしたのでお断りしたのですが、博物館への所要も抱えていましたので、降雨の際はカメラを開けない条件で承諾した次第です。

 

11/15に行われたフォーラムのサブタイトルは”68名のオオカミ体験“でしたが、その多くはメディア経由で得られた情報です。

 

68名のオオカミ体験レジュメ

 

ロケは11/26の16時52分から17時20分に放送されるNアンサーと言う番組でした。

中途半端な時間帯ですので然程の期待はしていませんでした。

しかし27日のパソコンを開けて吃驚・・・・・・先ずはその内容をご覧下さい。

 

【八木様、初めまして。

飯能市在住の佐野と申します。

昨日のニュースを拝見しまして、メール致しました。

私は以前、大滝村の滝沢ダムの橋の工事(橋脚工事)中に、野犬を見ました。

平成10年の春だったと思います。

工事の仮設道路脇の斜面に居ました。

昨日テレビで見た写真の野犬に似ていたので、びっくりしました。

 

TV画面上の秩父野犬

 

発破する直前に目撃(私を含め3名)したので、今でも覚えています。

こんな山奥に野良犬が・・・?

発破するけど大丈夫かな? って思ったのを覚えています。

三峰神社からはちょっと離れてますが、もしかしたら?と思いメールさせていただきました。】

 

平成10年は西暦1998年でして、私もその年の2月11日AM11:00に近くの山で咆哮を聴いています。

 

咆哮が聴こえた沢に有る丸木橋 

 

ちなみに、秩父野犬を撮影したのは1996年10月14日で、同じ秩父山中になります。

数日後こんな情報が追加として届きました。

 

【先日お話した後、グーグルアース・ストリートビューで確認したのですが、自分が工事した橋は、雷電廿六木橋(ライデンとどろきばし)です。

 

ループ状の雷電廿六木橋

 

青いトタン小屋はダム側でしたね。

 

青いトタン小屋

 

野犬を見たのは反対の山側の小屋です。

 

野犬が居た小屋

 

余談ですが、当時青いトタン小屋の所には山から沢の水が引いてあって、飲料水として使っていました。

確認はしてませんが、小屋の上の方に水源があったようです。

 

小屋の上方の水源

 

おそらく野生動物も飲んでいると思います。

実際、地元のおじさんがイノシシを捕まえてました。

わっぱがしかけてあるから、山の方には入るなと言われてました。

地元のおじさんは、小屋の付近の沢を『ししどうさわ』と呼んでましたよ。

猪の道(獣道)があるのだと、当時思いました。

自分が見た野犬も、その道を歩いていたかもしれませんね。

また、何か思い出したらご報告いたします。】

 

佐野さんの目撃現場周辺は体験談が非常に多い所で、カメラも現在6台設置中です。

今回の記事も前回同様、2015/01/31掲載「獲って食べた秩父の人」の再掲載になります。

そして当時、秩父関連の情報の殆どは、旧大滝村在住の吉田泰邦さんから聞いたお話ですので、御承知置き下さい。

 

私が秩父野犬の写真を撮って間もなく、仲間たちが集まって営林署の廃屋で語り明かしたことが有ります。

ニッポン放送の収録を兼ねての集まりだったのですが、吉田さんが「昔、罠に掛かったオオカミを処置に困って埋めた人を知っているんだけど」と教えてくれた現場でした。

 

集まった仲間たち

 

営林署の廃屋

 

ロケの様子

 

旧大滝村で林業を営む吉田さんは山林250町歩程所有している大地主ですが、それでも村で10本の指に入る事は無いそうで、20~30番目位の山持ちだそうです。

1町歩は3.000坪ですから750.000坪、㎡でなら250万㎡、私には想像もつかない面積です。

ただ、埼玉県の面積の10%は旧大滝村で、その殆どが山林、人口が1.000人前後ですから、有り得る話なんでしょう。

村だけで無く隣の両神村にも山を持っている吉田さんが、山廻りをしながらニホンオオカミの情報収集をしている時だったそうです。

 

吉田泰邦氏

 

もう20年以上前の話ですが、自分の山の近くで炭焼きをしている老人と何気なく話している際、「昔の事だが知り合いが獲った事がある」旨の話をその老人に教えて貰ったのです。

吉田さんは話を聞いた2~3日後、年金生活で悠悠自適のAさんを旧両神村の自宅まで訪ねました。

10年以上前に定年退職したAさんは、吉田さんの訪問を歓迎するでもなく、かといって嫌がる風でもなく、ただ淡々と語ってくれたそうです。

 

奥秩父の山村で生活する人達の楽しみは、“腹いっぱい食べる事”で有った昭和28~9年の事です。

狩猟に於いては現在のスポーツハンティング等では無く、人間が生きる為に必要な生活の糧を得る狩猟で有って、

釣りに於いても釣り上げる事そのものを楽しむ現代の釣りとは趣を異にして居ました。

Aさんの数少ない楽しみの一つであった渓流釣りも、貴重な動物性たんぱく質を得ることが最大の目的でした。

 

ニホンオオカミ研究の仲間である、岩本さんが以前面白い話を聞かせてくれました。

岩本さんの娘さんが中国の北京に留学していた25年程前、現地の友人が出来て郊外の家に遊びに行った処、

犬が繋がれて居て、とても可愛いかったので家の人に名前を聞くと“名前など無い、普通の犬だ”と言われて笑ってしまったそうです。

 

犬は私達が愛玩用として飼う犬ではなくて、商品として食用に売る為の犬でしか無かったのです。

今日私たち日本人は“犬”を食生活に取り入れることは無いので、中国人と娘さんとのやり取りが滑稽に写りますが、

埋蔵文化財発掘にても判る通り、食べる事が目的であった時代を経て、番犬から愛玩用へと飼育目的が変わって来て居るのです。

 

国や地域により異なる食文化を考えてみると、そのような事があっても不思議では無いでしょうし、

日本人が好んで食べる鯨に関しても同じ事が言えるのかも知れません。

吉田さんが言うのに、昭和30年代、大滝村近辺に番犬もしくは愛玩用としての犬は居らず、飼っている人達は皆職業猟師だったそうです。

昭和14年生まれの吉田さんは、終戦後からしばらく昭和30年代までは、肉類は年に2~3回罠に掛かったウサギの肉を喰う位で、通常ほとんどお目にかからなかったと言います。

 

秩父山中で名人と言われた猟師に聞いた事が有ります。

ニホンカモシカが天然記念物と言っても、それはあくまでも山村の事情を理解しない中央の役人や学者が決めた事で、

目の前にニホンカモシカが出てきたら、それは天然記念物ではなくて、動物性蛋白質なのだ!と。

無論現在の話では無いですが、狩猟関連の書物をご覧になれば、秩父に限った話で無い事は明らかです。

 

ニホンカモシカの親子

 

その名人はこうも言いました。「俺が片端からカモシカを撃ったから奥秩父の林業は守られたんだ!」と。

昭和30年代後半から40年代初めくらい迄は、日本の山村に於いて人間と動物の関係はこういう部分が有ったのも事実だったでしょうし、

“生きる”という事はそういう事なのだと、野生動物の観察を通して私は思っています。

 

吉田さんが伝え聞くには、

Aさんは山の仕事に従事する公務員だった為、奥秩父の谷、山に関してめっぽう詳しく、

そこは自転車で自宅から片道2時間掛けて来るには余りにも労を要した山域でしたが、他に入る人もほとんどおらず、思いの他釣果を得られたので、毎週の様に通ったと言います。

 

安谷川周辺の概略図

 

そんなある日、木の切り出しに使用する細いワイヤーが放置されているのを見付け、他の山で仕掛けてあった罠を真似て、自分で工夫してくくり罠を仕掛けてみた処、

思いがけず動物が掛かっていて、それはキツネ、タヌキの類では無いイヌ科動物だったそうです。

 

その時は2週間ぶりの巡回だった為、動物は硬直していて動かず、罠から逃れようともがいた姿が眼の前に繰り広げられていました。

口元はワイヤーを切ろうと必死だった様子が覗えて、腫れて傷ついた箇所がいくつもあり、1本の足は白い骨が見えるほどワイヤーが食い込んでいたそうです。

Aさんは目の前の獲物をどうすべきか、少しの間考えましたが腐敗が始まっていない肉で有る事を確認すると、解体して肉だけ持ち帰る事に決めたのです。

生きる為とは言え国有林の中でやってはいけない事をしている訳で、罪の意識を感じつつ、しかし初めてみる動物の外態だけは記憶に残すべく観察をしましたが、その時の様子が以下です。

 

【毛色は茶がベースで背中の所々にゴマ毛がある為に、その部分は灰褐色に見えて、割合大型だった。

例えて云えば紀州犬より少し大きめだった。

そしてその動物の最大の特徴は、牙の大きさだった。

頭の大きさに比べて、牙が普通の犬より格段に大きくて、Aさんはニホンオオカミをイメージせずにはいられなかった。

 

こんな感じの動物だったのか?

 

となると、尚更この事は自分の胸だけに収めて置かなければならないと考え、肉以外の残骸の処置を完全にする方法《穴を掘って埋める》為、付近の適当な場所を選定した。

罠を仕掛けた場所は、営林署の作業小屋の上流百㍍位で、右手から熊倉山からの沢が流れ落ちていて、小さいながら中州になっている所だった。

川は短いが標高差が大きい為、一度暴れると信じられない程大きな岩石や大量の土砂を下流へ運び出す。

作業小屋の付近は何処を掘っても砂利交じりで、深い穴を掘れそうもなかった。

罠を掛けた中州に埋めるのも気持ちとして引っ掛かりがあったが、時間が掛かって第三者に見られても面倒になるので、

取り急ぎ残骸が隠れる程度の穴を掘り、その上に目印として適当な石を載せて家路を急いだ。

家に帰ったAさんは、日頃お世話になっている近所の数人に、持ち帰った肉をおすそ分けして、おおよその事情を話した。

その肉は山中の厳冬期に備えて体内に貯えた脂肪の為か、年に数回口に入れる動物の肉だった為か、食べた人は皆一様に旨かったと言った。】

 

おすそ分けを戴いた中に吉田さんが聞いた炭焼きが居たのです。

Aさんから話を聞いた吉田さんは、或る日スコップ、ツルハシ持参で現場近辺の河原を掘り返して見たのですが、

半世紀近く前、暴れ川の中州に埋めた動物の残骸など見つかる筈も無かったのは言うまでも有りませんでした。

川の源頭近く酉谷山で、吉田さんがニホンオオカミと思われる動物と遭遇するのは、Aさんが犬科動物を捕獲してから7~8年後の1月1日の事です。

 

酉谷山(1.718m)

前回同様、2015年2月14日に掲載された記事の再掲載になります。

 

相模原市の佐藤芝明さんから手紙が届いたのは1995年9月の末でした。

佐藤氏は「日本山岳会」、「山村民俗の会」等に名を連ね、「山の神」関係の著書も数冊記しています。

 

山の神の民俗と信仰

 

手紙に同封されていた日本山岳会の会報“東西南北”には、「魚沼駒ケ岳とオオカミ」と題して、佐藤氏の小文も載っていました。

 

日本山岳会会報「東西南北」

 

魚沼(越後)駒ケ岳は私の故郷の山であり、信濃川の支流魚の川からの眺めはもう絵のごとく、極端な話、家から一歩外に出ると駒ケ岳がついて来るという感じです。

ピラミダルに整った三角形の山容は、隣の中の岳に高さで少々遅れをとっても、魚沼三山中(八海山、中の岳、駒ケ岳)は言うに及ばず、近辺の山々を圧倒しています。

高校に入学してから、山岳部に入部した私にとって、駒ケ岳は活動のほとんどだったと言えるかも知れないのです。

小遣い銭も不自由だった昭和40年代の初め、大湯温泉までのバス賃とその日の食糧だけで親しめる山。

それが魚沼(越後)駒ケ岳でした。

 

坂西徹朗作「越後駒ケ岳」

 

それは兎も角として、佐藤氏の体験は次の様に記述されています。

『1994年8月7日、越後の名山駒ケ岳に登った。

駒の背を思わせる山頂は展望が良い。

帰路は小倉山、道行山、明神山、枝折峠へと猛暑の尾根を断食行者のようにフワフワと歩いていた。

道行山の先で右手(骨投沢)に下る古道を発見した。

 

骨投沢周辺図

 

この先に少しばかり日影があり、沢から吹き上げる微風に涼をとっていると下の沢筋から突然「ウォー」という吠え声が聞こえて来た。

直感でオオカミだと確信した。

理由は猟期でないこと、銀山平に犬が見当たらないこと、一般人の立ち入り出来ない沢の上部など。

魚沼山域、只見にはオオカミが生息していると確信している。

記述が長くなるが、近辺の山域のオオカミ関連として、1990年8月、山の神の調査で大白川の五味沢に入り、浅草岳から只見町の奥地、入叶津に下り、民家に泊まったことがある。

尺三寸という岩魚の塩焼きを特注して宿の主人(佐藤泉氏)と飲んでいた時に、ワナによる猟の話が持ち上がった。

30年近く毎年数十頭の四つ足動物を捕るという。

昭和50年代まで冬山でオオカミの吠え声を聞いたと言う.

・・・・この話を聞いたときから「オオカミの生息の確信」を持ち続けている。

さて(骨投沢)の由来を独断で書くと、狩人は獲物をこの尾根で解体し、毛皮と肉をとった残りを山の神の使いであるオオカミに投げ与えたところからきたものか。

または、昔銀山平に働いた人達が事故や病気などで死亡したときに、遺骨を銀搬出の道を経て故郷に送る途中で、この沢に投げ捨てたことからきたものであろうか・・・・。』

 

そして以下の文章で終わっています。

『今回の駒ケ岳登山は・・・、魚沼オオカミの生息をさらに確信する吠え声を耳にできたことは有意義であった。』

 

私が足繁く駒ケ岳に通っていた頃は、御多分にもれずニホンオオカミの生存云々等には一切おかまいなしで、登山道に獣のフンがあっても、全く感心を寄せずに通り過ぎるのが常でした。

ちなみに魚沼地方のオオカミに関する文献を探ってみても、昭和2年2月に、南魚沼郡塩沢町の猟師が北魚沼郡湯之谷村の山中で、三頭のうちオス一頭を射殺した一件がある位なのです。

 

19歳時/越後駒ケ岳山頂にて

 

佐藤氏の依頼でもあった骨投沢の名の由来を聞くべく、高校山岳部の後輩であり、北魚沼郡で父親の跡を継いで現在土建会社の経営をしている三友泰彦君に電話をしました。

・・・「オイ、マメ(元気)だか?」・・・・「はい、何とか」で始まるいつもの他愛ない会話が終わると、銀山の骨投沢の一件を聞いてみました。

 

骨投沢の名の由来は佐藤さんの想像した通り、昔銀山平で働いて死亡した人の骨を、急な山道の為心ならずも投げ捨てた・・・と言う返事が返って来ました。

奥只見方面のトンネル、道路等の工事に深く関わっている三友君ですので、山の動物、特にニホンオオカミの事について、佐藤さんの骨投沢の遠吠えの件のついでに聞いてみました。

 

 二週間位経ったでしょうか、フト思い出して三友君の所に電話をしてみました。

今回は前回からそれほど経過していない連絡なので“オイ、ナジデェ”である。(どうしていますか?位の意味)

この前の電話の返事を聞くと、思いもかけない言葉が返ってきた。

“あのソー、狼がいるかいないかどころの騒ぎじゃなくて喰ったら旨かったとの!”と言う話。

・・・“何、なんだその話は“・・・そのとき私の受話器を持つ手は震えていた。

 

 【オオカミを撃って喰った越後の人】の話は、骨投沢の由来から始まったのです。