前回に続き、10年前の4月に掲載した「平岩家の動物文学」のリニュアル版です。

私が未だ駆け出しのころ平岩氏の意見は絶対的で、下記文面の通り、ニホンオオカミ生存に関する事案は「絶滅」の二文字以外は認めず、生きている(かも知れない)考え方は闇の中に葬られました。

そんな中、「動物文学」に生存説を多数投稿していた「松山義雄」氏は、「狩りの語部」三部作を発表したのです。

 

2015年4月11日掲載の紙面

 

 

松山義雄著「狩りの語部」

 

国内で科学的見地に立った二ホンオオカミ(Canis hodophilax)の研究は、日本犬保存の為の研究と平行して開始されました。

明治維新後の文明開化によって欧米から洋犬が輸入されるようになると、日本犬の飼育をする人は少なくなり、昭和になると純粋な日本犬は、ほとんど姿を消す事となりました。

この現状に危機感を抱いた斎藤弘吉氏・平岩米吉氏等は、1928年昭和3年)に日本犬保存会を創立して保存運動を展開すると共に、二ホンオオカミの科学的な研究を始めたのです。

斉藤氏は主に頭骨の計測により、平岩氏は頭骨計測、古文書の発掘そして生態の観察に努めました。

その後平岩氏は「動物文学会」を創立し、その機関紙として1933年「動物文学」を創刊・主宰し、1986年の死去後は長女由伎子氏がそれを継承しています。

 

 

動物文学 平成九年初冬号に掲載の平岩米吉氏

 

 
動物文学 主宰者 平岩由伎子氏 

 

20年くらい前の事ですが、図書館で貸し出し禁止の「動物文学」全巻を紐解き、掲載されている二ホンオオカミ体験記等をコピーした事が有ります。

一日がかりの作業でしたがコピーを束ねると分厚い書籍と化していました。

米吉氏は「動物文学」創刊以来「二ホンオオカミ絶滅説」を貫き、由伎子氏もそれを踏襲しています。

私達は【二ホンオオカミは生きている】と考え、その為の活動を続けています、が、一般的には平岩氏等の考え方の方が圧倒的に多いのです。

下記は仲間が送ってくれた、二十数年前「動物文学」に掲載された主宰者の文面です。

「動物文学会」の機関紙である「動物文学」である事を念頭に、ご覧願えればと思います。

 

日本狼残存説を憂える 平岩由伎子

少し前になるが、「狼―その生態と歴史―」を読まれた和歌山の西本喜一氏(明治29年生)という方から次の様な手紙を頂いた。

『昭和22~23年にかけて和歌山県西牟婁郡すさみ町江住の谷奥で岩谷万六と言う男が炭を焼いていました。

その炭焼小屋の側へ山羊を繋いで飼って居たが、朝自宅から小屋に来たら山羊は食い殺されていたので、穴を掘って埋めた。

その夜は小屋泊まりだったが、狼が怒って一晩中鳴いていたので、とうとう眠る事が出来なかった!と言っていた。

その後私も同じ場所で昭和50年~51年にかけて、炭を焼きました。

私も家から通っていましたが、一釜焼くのに一晩は小屋に泊らねばなりません。

その時も夜は狼に吠えられました。

長い間山の中で仕事をして来たのに、狼の正体、姿を見たことは有りません。

妻が中年の時、夜遅く家に帰って来た事が有り、その時百メートルくらい遅れてイヌが着いて来て家まで送ってくれたが、これが送り狼であった事は確かです。

又、夜も朝方も狼が吠える声は良く聞きます。

今でも炭焼小屋の奥に居ると思います。』

 

なお、氏は二十歳のころ山猫に遭遇した体験も寄せてこられた。

お手紙を見ると非常に真剣で好い加減なことをいう人柄では無い様である。

しかし、この報告の内容を見る限り、狼がいるという証拠になるものは何一つ無い様である。

つないであった山羊が殺されて喰われたからといって狼の仕業だとは決めてしまっているが、野生化した犬が山羊どころか牛を倒した例もあり、

山羊が殺されて喰われたからと言って狼とは決められない。

犬であっても少しも不思議ではないのである。

山中の吠え声やフン等についても、狼のものであるという証拠はどこにもない。

夜遅く人の後をつけてきたから送り狼というのもそうである。

西本氏が言ってる事は、これまでに無数に繰り替えされてきた狼残存説と少しも変る処が無い。

 

以前、日本狼の残存というロマンを追うあまり、終にはおかしくなって狐、狸まで日本狼だと主張したり、六甲芦屋の住宅街にも若狼が出没する等と言い出した人物がいたが、

 

 
この文章の件は斐太猪之介氏(写真)と思われる

 

最近、またまた、それに類する残存説が一部のグループで流布されている様である。

 

 
この件は1994年3月20日 、奈良県下で開催したフォーラムの団体らしい

 

おそらく西本氏もそれ等の説を耳にされた事も有って、体験を報告してこられたのだと思う。

今回の残存説も日本狼のロマンにのめりこんで、本気でそうしたことを信じているのか、よく判らないが、とにかく「日本狼が絶滅した等と言うのは、何も知らない学者のウソだ。

現在でも猟師や炭焼きの中には日本狼を目撃している者が幾らでもいる。」そればかりか「狼が和犬にかかって生まれた子孫が現存する」等と主張している。

その地方の山に、かって狼が多く棲息していたことは事実だし、おそらく他のいくつかの地方とともに最後まで残存していただろう。

 

岸田日出男氏執筆の「日本狼物語」に多くの記述がある

 

しかし確実に日本狼と認められるものがその地方で獲られてから、すでに八十有余年の月日が経過している。まず残存しているとは思えないのである。

 

 
シーラカンス(写真)は6500万年前に絶滅したとされていました

 

昭和34年大阪市立大学探検部13名によって行われた調査でも残存は否定され、猟師炭焼きの人達(19名)からの聞き込みでも、いると答えた者はただ1名のみで有ったと言う。

 

今回の残存説も、昔から狼について言い伝えられてきた誤った観念をもとにしたもので、牛の吠える様なすさまじい吠え声を聞いたから狼の声に違い無い、

足跡が大きかったから、糞に毛や骨片が混じっていたから狼のものだ等々。

 

全く科学的な根拠を欠いているものばかりである。

 

言うまでもなく狼の吠え声は牛の吠え声等と言うものでは無いし、野生化した犬の糞にも毛や骨片は混じっていて当然だから、そんな事は狼の証拠にはならない。

和犬に日本狼が交雑したと言うのも、この和犬の飼主はその狼の姿も交尾も確認している訳では無い。

発情した和犬のメス犬を繋いでおいたら、その周囲に、

「犬より大きくて、犬より丸い足跡が沢山残されていたから、狼が来てメス犬と交尾した事は確かだ」としている。

そして、このメス犬が出産したところ、「その子が余りに狼に似ていたので気味が悪くなり、大部分の子を捨ててしまった。

残した子も狼に似ていて、性質などが犬とは違っている」と言う。

日本狼の大きさは中型の和犬よりは大きめだが、小さいのもいた様なので、足跡の大きさだけで決める事はできない。

形が犬より丸いと言うのも狼である決め手にならない。

逆に丸いのこそ犬の足跡の特徴なのである。

これだけでも和犬に掛かったのは犬であって狼では無かった事になる。

 

炭焼きの中には、現在でも毎日の様に狼の姿を見ている者がいる等と言うのも到底そのまま信用する事はできない。

猟師や炭焼きの中には本当の狼を知らずに、野犬などを狼と呼び慣らしてきて、それを信じている者もあるのだろう。

野生の獣を熟知している筈の職業の人々は、意外にそうした事に無知で、荒唐無稽な言い伝えや誤った観念を、ただそのまま信じている事が多のである。

 

狼が交雑した確証の全く認められない犬(それらは不鮮明な写真で見る限り犬そのものの姿で狼らしさは無い様である)同士を交配し狼に似た形質を積み重ね、日本狼を復元しようという計画もあると言う。

 

 
二ホンオオカミを復元させようとした村上和潔氏

 

そのグループの人達の主張するように、本当に日本狼が絶滅していないなら、そんな事をする必要は無い筈だと思うが、

そうした計画を進めてどういう結果になるだろうか。

例えば、ストップのゆるい頭骨、上顎第四前臼歯、下顎第一臼歯などの巨大な犬を作っても、犬は犬である。

私達が好みに任せて小はチワワから、大はセントバーナード、脚の長いボルゾイ、短いダックスフントを作り出した様に、狼に似た犬は幾らでも作れる。

だが、いくつかの形質を人工的に作ったところで、それは狼では無い。

 

村上氏が創出した所謂「戻り狼」

 

それより私が気になるのは、前記の地方でヌクテ、或いはシベリアオオカミを紀州犬に交配してすでに昨年から子をとっている事である。

この一代雑種の一頭が山に捨てられたと言う情報もある。

 

この件は世古 孜 氏(写真)の事らしい

 

これまでもそうであった様に、狼のロマンに取り付かれた何の根拠も無い残存説は、繰り返し浮上してもひとりでに消えていくものだから、それを一々真面目に取り上げるまでも無いと思う。

だが、それが売名を願う人々に利用されたら、狼の研究の歴史に拭い様の無い汚点を残す事になりはしないだろうか。

私はそれを憂うるばかりである。

前項に続き、2015年2月28日掲載文面が読解不能となっておりますので、「書き留めたノートから-2 山中 求」のリニュアル版となります。

 

2015年2月28日掲載面

 

2002年5月の連休。 

今まで多くの情報を積み重ねていたものの、何となく行くのを躊躇っていた、大滝村の最深部中津川源流域に車を走らせた。

遠いから億劫になるとか、行きづらいと云うよりも、近くに調査中の所を、二ヶ所ほど抱えていた為ついつい後回しになったのだ。

調査の殆どを一人でやっているので、日常の仕事との兼ね合いで、休日の殆どをつぎ込んでも足りない位で、そうせざるを得なかったのである。

 

一日目は今迄の調査地点の再確認に費やし、二日目の朝から山中深部の探索を始めた。

歩く事2時間余り・・・雪消えの湿った地面に所々付いたイヌ科動物の、7~8CMは有ろうかと思える足跡。

そして足跡の近辺にニホンカモシカの食い散らかされた残骸。

さらに、同じイヌ科動物が残したと思われる毛糞。

 

カモシカの残骸と毛糞

 

毛糞を発見した際、後方から押し寄せる獣の気配で身体が固まり、気配が去るまで後を振り向く事が出来なかった・・・そんなオマケも含め。

それぞれの事例が別々の場所に在ったと云うのなら今まで幾度もあるが、今回の様に限定された一箇所に集中している事は、初めての経験であった。

VTR撮影の後、毛糞と、ニホンカモシカの残骸を採取し、予想以上の収穫に満足して帰宅の途についたのは、日没後暫らく経てからの事だった。

 

同じ年の8月、峠を越えた川上村でアルバイトをしていた京都の岡田氏から、私の情報を確認したいと申し入れが有った。

私が5月に探索した場所と同じ山域を岡田氏が調査したところ、やはり7~8CMの足跡を発見したからだった。

そんな積み重ねの中で、私達の活動の最重要地点として、その近辺の山域の調査を、大至急しかも入念にする必要性を2人は感じた。

そして、出来るだけ早い時期に実行したいと、今冬を待って山篭りする事を岡田氏は私に伝えた。

山篭りの準備は地元の私が受け持つ事になったのだが、2ヶ月の山篭りを支える準備には物品の量も半端ではなく、自宅からべース地点迄の往復を幾度も繰り返した。

雪が無ければ山奥とは云っても車で入れる所だし、私は夢中になって走り回り、多くのエネルギーを費やし、降雪までの間に全ての準備を終了した。

 

奥秩父山中にデポ(荷物を保管)した場所の地図

 

京都から岡田氏が来たのは2月初めの事であった。

 

岡田直志さん

我が家で、最後の準備に2~3日費やしていた時、思いがけず大雪が降った。

中津川なら50CM以上は降ったのではないかと予想される中、入山日を変更しようか?と相談したところ、

車で行ける所まで行って、自力で現場まで行くと岡田氏は答えたので、その意思を尊重する事とした。

 

出発当日雪は止んでいたが、家の近くの道路には、雪が残っていた。

心配の中向ったのだが、埼玉県の最深部中津川は除雪が行き届いていて、耕地の奥まで難なく入る事が出来、出発時の心配は無用となっていた。

舗装道路の尽きる辺りで歩きになるだろうと考えていたのであるが、その先の林道もずうっと奥まで除雪がされていた。

 

冬季の入山を規制するゲートの少し手前で除雪作業をしていた初老の三人が、私たちの車を発見すると、親しげに話し掛けてきた。

 

入山規制のゲート

 

「お宅ら、オオカミ探しに来たんだろう!」準備の為毎週の様に往復していた私の車が目立って、耕地の中では大きな噂になっていたらしい。

私達は除雪作業を出来るだけ、奥の方までやってもらいたい下心も手伝って、挨拶を交わし、愛想良く話に応じていた。

一番の年長者が、言おうか言うまいかと、迷ったあげく・・・といった風情を見せる中で思い切った様子で、話を切り出してきた。

「随分前の事だが、俺も、オオカミの遠吠えを聞いた事があるんだ・・・」。

予想もしなかった展開に、思わず岡田氏と見つめ合った私は、その年長者の話を一言も聞き漏らすまいと、全神経を集中させ緊張した。

三人の中で除雪車の運転手が役割的には責任者と思えたが、その年長者は何とはなしに仲間から、一目置かれる存在に見えた。

 

大滝村人口千五百名の中で、異なる名字の数がどれ位あるのか?

例えば私が関わっている、秩父宮記念三峰山博物館の事務長である、千島幸明氏に電話をする時は“千島さん”などとは決して言わない。

千島氏自身も電話口での開口一番“幸明です”と言って来る。

神社に勤める千島さんは数多く、名前を伝えるのが一番の早道なのだ。

同様に中津川でも、そのほとんどが「山中」姓である為、年長者に向かって“失礼ですが山中何さんと言いますか?”と聞いてみた。

もしかしてと、思うところではあったのだが、またしても驚くことに、“山中 求です”と答えて来たのである。 

7年前の暮れ、秩父の内田家の毛皮の出所確認をするべく出向いた中津川耕地で、タイミングが悪く会えなかった山中求氏だったのである。

 

昭和47~8年の12月。

中津川の源流部となる白岩付近に、バンドリブチ(ムササビ打ち)に出かけたのは、月明かりの夜だった。

 

 中津川源流部の白岩

 

親戚筋の山仲嘉男氏が、荒川村上田野から泊まりに来ていて、バンドリを打って見たいと言い出したのが始まりだった。

バンドリは月明かりの晩、木々の間から顔を出したところを、懐中電灯で照らすと、目が金色に光るので、それを目標に狙って撃つのだ。

昭和9年生まれの山中求氏は当時営林署に勤めており、国有林内での狩猟で、しかも夜しか獲れないバンドリ撃ちでの体験を人に話す訳には行かず、人知れず自分の胸の中に収め続けていた。

国有林内の狩猟は勿論禁止であって、狩猟法上に於いても日の出から日没までと、時間の制限も受けていたのだ。

ともかく、その晩自宅を六時頃出発した二人は、一時間後車止めに着くと、さらに一時間程歩いた後、目的地である、十文字峠から派生する、なだらかな尾根のブナ林で獲物を探し始めた。

しかし、その日はいつに無く不猟で、何の手ごたえも無く、場所を変えて探そうと1KMばかり歩を進めた時、つい先ほど通ってきた白岩の付近から、サイレンが鳴り響いた・・・と思った。

そこは中津川の源流部に位置し、深い沢を挟んで、谷がV字型に切れ込んでいるため、音がこだまの様に反響する場所ではあったが、山中にサイレンが鳴り響いた数秒後、獣の咆哮に変わった。

 

山中求さんの体験を記した二ホンオオカミフォーラムのレジュメ

 

腰が抜ける程と言っても良いくらい吃驚した二人は、顔を見合わせた。

お互い何も言わず声も出さなかったが、お互いが同じ事を思っているのが良くわかった。

湧き上がるような恐怖感に突き動かされて、何も云えない二人は、キビスを返して、走るように車まで戻った。

中津川耕地で名人と言われ、狩猟の武勇伝に事欠かない山中求氏であるが、それ以後白岩付近には近づいた事が無いと言う。

 

大ガマタ沢の源流部が白岩

2月~3月の2ヶ月間山篭りをした岡田氏は、6ミリ×30メートルのザイルをザックに入れ、白岩近辺の岩場を丹念に探し廻った。

三十年前の痕跡があろうとは思わなかったが、動物が巣穴に使えそうな岩穴が、無数に散在していたと私に伝えた。

長い間秩父盆地のシンボルと言われ、そのシンボルの形が変わるほど石灰岩を掘り出してきた武甲山。

秩父山中には石灰岩で構成されている山が多いのである。

 

10年前、2015年3月20日に掲載した文面ですが、下記写真の通り読解不明となって居ります。

新年度(2025年)最初の記事として、ニホンオオカミ研究の第一人者「今泉吉典先生」理論の再掲載を行います。

 

 

2015年3月20日掲載面

 

幻の二ホンオオカミ

オオカミは口が耳まで裂け、足跡が5本指だと日本の古文書に記されている。

だがここで二ホンオオカミCanis hodophilax というのは、そのような伝説のオオカミではなく、

シーボルトが、小野蘭山の『本草綱目啓蒙』などに記されたヤマイヌと判定してオランダ、ライデンの博物館へ送った野生犬のことである。

この短毛(背毛4センチ)のヤマイヌは、タイリクオオカミC.lupus より短脚で耳が小さい。

ところで上野の博物館に古くからあった福島県岩代産の野生犬は長毛(背毛9センチ)で、ライデンのヤマイヌとは違うようにみえる。

 

国立科学博物館蔵M100no剥製

 

だが、その骨格はタイリクオオカミやシェパードより長胴、短脚で、ヤマイヌに等しい。

そればかりではなく、耳が短く、背筋の黒色が体側の灰色毛より長く暗色縦帯(松皮模様)を形成し、

橙褐色の前肢前面と淡色の内面の境に暗色縦斑があるところまで、ヤマイヌにそっくりである。

周知のように、タイリクオオカミは夏冬で毛の長さが変わる。

ヤマイヌもこれと同じで、岩代の野生犬はヤマイヌの冬毛のものではないだろうか。

するとこれに似た大英博物館と和歌山大学の野生犬(前者は奈良県鷲家口産)も冬毛のヤマイヌということになる。

 

ヤマイヌの特徴

短脚長胴のヤマイヌは平原の生活に順応したイエイヌC.familiaris やタイリクオオカミと違って、名前のように山岳で生活する原史的な生物らしい。

ヤマイヌは、頭骨の重心が前方にあり、下顎を組み合わせた頭骨を机上に置くと、上顎後端が地に着くことでもイエイヌと区別できる。

 

上顎後端が地に着くオオカミ

 

上顎後端が地に着かないイヌ

 

平岩米吉氏が発見したこの特徴は、私が調べたヤマイヌの頭骨(ライデンの2個、大英博物館の1個、および国内の15個)に例外なくみられたが、

イエイヌでは吻が長い品種でも頭骨の重心は後にあった(103個調査)。

イエイヌの原種らしいディンゴC. familiaris dingo (11個)も同様である。

ところがヨーロッパ、アジアと北アメリカのタイリクオオカミは調べた頭骨(175個)の45%がイエイヌ型で、この形質ではヤマイヌとイエイヌの中間であった。

イエイヌの頭骨側面下方には、脳神経や動脈を通す孔が5個開いている。

ところがライデンと鷲家口のヤマイヌの頭骨にはこの孔が6個のものがあった。

これは前から3番目の孔(正円孔)が外頸動脈を通す骨のトンネル(翼蝶骨管)内に開いていて外から見えないか、

トンネルの前に露出しているかの違いである。

 

神経孔が6個のニホンオオカミ

 

6個の型は原史的な状態を示すと思うが、これがヤマイヌ(11個)では頭骨の64%に見られたのに、タイリクオオカミ(197個)では8%にしか見られず、

イエイヌ(103個)とディンゴ(11個)では見たことがない。

 

紀伊深山に潜む謎のイヌ

ところが、1990年、三重県のオオカミ研究家故世古孜氏は、この孔が左右ともに6個あるイエイヌを見つけて頭骨を送ってきた。

それは大内山系の雌イヌだそうで、頭骨の重心はイエイヌ型だが、口蓋、頬弓、前頭甲などの形態はイエイヌと違ってヤマイヌに似ている。

大内山系のイヌというのは、大正時代に雌イヌを山中に繋いでヤマイヌと交配させ、これを繰り返して作出した雑種だそうだが、頭骨からも両者の雑種のように見える。

 (後日掲載の世古孜論にて詳細を)

すると世古氏が、紀伊の深山に現在も少数生息し、イエイヌが恐れて近づかないと主張する野生犬は、ヤマイヌか、ヤマイヌとイエイヌの雑種の可能性があり、

実態を調べる必要があると思う。

というのは、もしそれが雑種なら、近年カナダに増えつつあるコヨーテC.latruns とイエイヌの雑種「コイドック」のように、

両親種のどちらとも習性が異なる新しい捕食者に発展して、生態系に重大な影響を及ぼすかもしれないからである。

またその中には、1905年に鷲家口で捕獲されたのを最後に絶滅したと信じられているヤマイヌ、つまり純粋のニホンオオカミが混じっていないとも限らないと思う。

野生犬は富士山須走口の森林にもいるが、ここのはイエイヌが野生化した野良犬にすぎない。

だが紀伊にいるというのはただの野良犬ではなさそうである。 (今泉吉典)

 

本草誌のオオカミ

中国の本草誌には狗(犬)に似た野生種として狼と豺の2種が出てくる。

この絵のようにからだが豺より大きく、毛色が灰色で前(肩)が高く、後ろ(腰)が低い狼を和名でオオカミと呼んだ。

タイリクオオカミを見知っていたシーボルトは、話に聞く蝦夷のオオカミは本物らしいが、

自分が飼っていたのはオオカミではなく、ヤマイヌだと判定した。川原慶賀「動物図譜」より。

 

 

本草誌のニホンオオカミ図

 

本草誌のヤマイヌ

豺(ドール)はタイリクオオカミより小さくて毛色が赤く、本物の豺を見たことがなかったわが国の本草学者は、

小さい本土のオオカミやこの絵のような野生化したイヌを豺だと思い、それをヤマイヌと呼んで混乱の種を蒔いた。

アカオオカミとも呼ばれる豺はトラをも恐れさせる凶暴な野生犬で、日本にはいない。川原慶賀「動物図譜」より。

 

本草誌のヤマイヌ図

 

ニホンオオカミの模式標本

シーボルトがヤマイヌだと思って出島で飼っていたニホンオオカミの剥製。

本種の模式標本(同定する際の基準)としてライデンの自然史博物館に大切に保管されている。

本草誌のヤマイヌに似せてつくった姿勢は参考にならないが、

耳や四肢の長さは、これがタイリクオオカミとは別種のオオカミであることを示している。

 

ライデン自然史博物館蔵タイプ標本

 

以上「週刊朝日百科」平成4年5月3日号にて掲載

 

 
週刊朝日百科の掲載文

 

今から3年前の2012年、NHKで放映されたETV特集「見狼記」をご覧になった方もおいでになると思います。

番組中、紀伊半島の研究者故村上和潔氏にもスポットを当て、二ホンオオカミとは全く無縁の「戻りオオカミ」なる動物を取上げました。

番組制作側に村上氏の存在を教え、資料を提供したのは他ならぬ私(八木)です。

 

村上氏作製の「戻りオオカミ」

 

「戻りオオカミ」は村上氏が作り出した、言うならば「村上オオカミ」ですから、番組には取上げない事を条件に提供した情報です。

私達の活動を、村上氏の活動と同一視されるのは困る故の条件提示でした。

何故制作側に村上氏の資料を提供したかと言うと、世古氏が今泉博士に送った、神経孔が左右6個ある頭骨の存在を知りたかったからです。

 

1990年代にオオカミ探しをしていた私達の間で、良く話題になった頭骨でしたが、誰もそれを見た事が無く、

別項にて記しますが、世古家に問い質す事も出来ませんでしたので、何とか願いが叶わないかと、長期間チャンスが来るのを待ち望んでいたのです。

「見狼記」は半年以上の撮影期間を要した1時間番組でしたが、ETV特集は内容次第で90分番組にもなり得ます。

その前年同じスタッフで「熱中人」なる15分番組を制作していましたので、

 

大滝山中にて/熱中人の制作スタッフと私

 

このメンバーなら世古氏の頭骨に辿り着けるのでは・・・そのプロセスも面白い筈・・・との思いの中多くの資料を提供したのです。

思惑通り世古氏の頭骨に辿り着いていたならば、「見狼記」はかなり違った内容になっていたと、自信を持って言えるのです。

 

・・・・・・・世古孜氏の言動に関しては異論も在りますので、後日、新たに世古孜論を掲載致します。・・・・・・・・