謹んで新春のお慶びを申します。

 

    

 

昨年は、ニホンオオカミならぬクマが日本各地を賑わせた年でした。

 

皆さまは、つつがなく1年を過ごされましたでしょうか。

 

かく言う私は5月下旬、一寸した注意不足で歩行困難になり、元の体調に戻すべく現在も、病魔と闘っております。

 

そんな訳で山中のカメラメンテナンス参加も例年の半分以下で、若い会員の皆様に苦労を掛けて居ります。

 

そうした状態でも会の運営が出来ているのは、今までの作業の積み重なりの賜物で、今後も明るい未来が待っている・・・と考えている次第です。

 

また体力の衰えと共に、来る誕生日は喜寿を迎える事になります。

 

誠に勝手ではございますが、本年を持ちまして年賀状仕舞いをさせて戴きたく、お願い申し上げます。

    

令和八年 元旦

 

    〒362-0051 埼玉県上尾市地頭方376-7

           Tel/FAX: 048-781-8463

                     E-mail hodopcanis @yahoo.co.jp

    秩父宮記念三峰山博物館客員研究員 

    NPO法人ニホンオオカミを探す会代表

           八木 博

今項は本年最後の記載になります。

実はそれに相応しい記事・・・と言う事で3ヶ月くらい前に大事にファイルしていた
のですが、いざファイルを探して見るとそれが何処に在るか・・・と言う事で、

全く違う内容になってしまいました。

ただ、本年最初の記事(1月11日記載)「長野県下の目撃情報―5」の延長的な内容
ですので、これも何かの縁かも知れません。

 

長野市郊外の目撃情報周辺には現在もカメラが3台設置されていて、定期的にカメラ
メンテナンスがされておりますが、現場近くの久米路橋建設に関わる悲話になりま
す。


       
                  カメラ設置時の様子
                                
 
                      久米路橋周辺図

       
                     名勝久米路狭

この伝説は久米路橋にまつわる悲しい伝説である。

昔村の百姓は一様に貧しい生活をしていた。

貧農の一人娘お菊は病気になり、何も食べない日が続き、お父が「何か食いてえもの
はねえか」と聞くと、

お菊は「あずきまんま(赤飯)が食いてえ」と言った。
 

年貢に搾り取られた貧農にはもち米や小豆の貯えはなく、明日の命もわからない娘の
願いをかなえてやりたい親心は、ついに盗みを働いてしまった。

地主の蔵から、もち米と小豆を盗み出し、赤飯を作ってお菊に食べさせたのである。

 
お菊は食欲を取り戻し外に出て遊べるようになった。

「おら、うまいあずきまんま食ってるぞ」と一緒に遊ぶ子供達に誇らし気に話した。

この話が証拠となりお菊の父は捕らえられてしまったのである。
 

昔の久米路橋は大雨のたびに橋が流されてしまい、神の怒りによって流されると信じ
た村人は、人柱をささげて鎮めようとし、捕らえられたお菊の父は久米路橋の掛替の
人柱として生き埋めされたのである。

           
                         久米路橋の悲話

父を失ったお菊は放心のあまり口をきかなくなってしまった。

何年かあと、お菊の眼の前で雉が鳴き、その鳴き声がもとで猟師に撃ち落されたと
き、お菊は一言だけ口をきいた。

「きじも鳴かずば撃たれないものを・・・・」。

それっきりお菊はまたもとのおしになって、一言も言わず悲しい毎日を過ごしたとい
う。

この悲しい親子の伝説は、今でも親から子に語りつがれている。

           
                       目撃現場
2025年も残す処あと僅か。

5月下旬、足を痛め歩行困難になって、蒼穹号の散歩も妻にお任せ。

8月から足を引きずりながら、何とか歩く事が出来る様になったのですが、山歩きは
別次元の事。
 
6月初めからの山行きは10回近く記録されていますが、助手席での話し相手が殆ど
で、カメラメンテナンスを行ったのは3回のみ。

          
                     本年9月の山行にて

体力の限界と云う事なのか……。

生存の確認まであと少しと私の心が呟いているので、身体に鞭打ってもう少し頑張っ
て……と。

年末の慌ただしい時期にお願いと言っては何ですが、

2024年9月11日/9月21日当欄掲載の「ニホンオオカミを獲って食べた越後の人」/
「獲って食べた人の後日談」をご覧願えればと思います。

ご存じの通り「絶滅論」なるものは、「過去50年間に渡り生存に関する確かな事例が
見つかる事」です。

2024年9月11日/9月21日掲載の事例は昭和35年(1960年)2月に捕殺された為、2025年
現在では50年の区切りを越えています。

とは言っても、国内外10例に満たない「ニホンオオカミの毛皮標本」が新たに加わる
事にでもなれば……。

           
                    ニホンオオカミ捕殺現場


下記が9/11と9/21の記事を抜粋した一部です。

【「鼻面から尾の付け根まで約1メートル、尾が30センチ位で、尾の先は切り落と
したように丸くなっていた。

毛色は全体的に茶色っぽく、後頭部から背中にかけて黒っぽい毛が生えていて、肢は
細くて長かった。」

色々聞いた後でどの標本に似ているか、私が持参した資料を提示して見ますと、3人
とも大英自然史博物館の、いわゆる最後のニホンオオカミにそっくりだと言ったので
す。

          
                     大英自然史博物館の標本

動物の毛皮を弟(利友さん)が山奥から持ち帰ったのを見て、ほぼ強引に3.000
円で譲ってもらい、音松荘のシンボルとして宿泊者に見せていたのです。

皮をなめすのに8.000円を更にかけ、“ニホンオオカミの毛皮だよ”・・・と。

しかし、昭和40年頃の浅草岳の山開きの夜、40人の宿泊者に毛皮のお披露目をしたの
が、乙一さんとの別れとなってしまいました。

                                                     
                          浅井乙一さん


                
                              浅井利友さん

翌朝毛皮の紛失に気がついた乙一さんは、宿泊者全員にザックの中身の提示を求めよ
うとしたのですが、

村役場の担当者に「山開きのお目出たい日に、罪びとを出すのも忍び難いか
ら・・・」とたしなめられたそうです。

「泣く泣く諦めざるを得なかった・・・」と、私の前で悔しそうに語った姿が今も眼
に浮かびます。

           
                          当時の音松荘

―当時の小屋の宿泊者名簿を探って何とか毛皮の所持者まで辿り着きたいーと、話を
聞いてからずーっと思って居るのですが、未だ果たせずにいます。

この文を読んで戴いた方から、紛失した毛皮の情報でも手に入る事になれば・・・そ
んな思いで一杯なのです。】

昨年9月に上記記事を再掲載して『毛皮発見の手掛かりになるお便りが来ない
か・・・!?』そんな思いを抱いていますが、残念ながら2026年が訪れようとしていま
す。