今項は本年最後の記載になります。

実はそれに相応しい記事・・・と言う事で3ヶ月くらい前に大事にファイルしていた
のですが、いざファイルを探して見るとそれが何処に在るか・・・と言う事で、

全く違う内容になってしまいました。

ただ、本年最初の記事(1月11日記載)「長野県下の目撃情報―5」の延長的な内容
ですので、これも何かの縁かも知れません。

 

長野市郊外の目撃情報周辺には現在もカメラが3台設置されていて、定期的にカメラ
メンテナンスがされておりますが、現場近くの久米路橋建設に関わる悲話になりま
す。


       
                  カメラ設置時の様子
                                
 
                      久米路橋周辺図

       
                     名勝久米路狭

この伝説は久米路橋にまつわる悲しい伝説である。

昔村の百姓は一様に貧しい生活をしていた。

貧農の一人娘お菊は病気になり、何も食べない日が続き、お父が「何か食いてえもの
はねえか」と聞くと、

お菊は「あずきまんま(赤飯)が食いてえ」と言った。
 

年貢に搾り取られた貧農にはもち米や小豆の貯えはなく、明日の命もわからない娘の
願いをかなえてやりたい親心は、ついに盗みを働いてしまった。

地主の蔵から、もち米と小豆を盗み出し、赤飯を作ってお菊に食べさせたのである。

 
お菊は食欲を取り戻し外に出て遊べるようになった。

「おら、うまいあずきまんま食ってるぞ」と一緒に遊ぶ子供達に誇らし気に話した。

この話が証拠となりお菊の父は捕らえられてしまったのである。
 

昔の久米路橋は大雨のたびに橋が流されてしまい、神の怒りによって流されると信じ
た村人は、人柱をささげて鎮めようとし、捕らえられたお菊の父は久米路橋の掛替の
人柱として生き埋めされたのである。

           
                         久米路橋の悲話

父を失ったお菊は放心のあまり口をきかなくなってしまった。

何年かあと、お菊の眼の前で雉が鳴き、その鳴き声がもとで猟師に撃ち落されたと
き、お菊は一言だけ口をきいた。

「きじも鳴かずば撃たれないものを・・・・」。

それっきりお菊はまたもとのおしになって、一言も言わず悲しい毎日を過ごしたとい
う。

この悲しい親子の伝説は、今でも親から子に語りつがれている。

           
                       目撃現場
2025年も残す処あと僅か。

5月下旬、足を痛め歩行困難になって、蒼穹号の散歩も妻にお任せ。

8月から足を引きずりながら、何とか歩く事が出来る様になったのですが、山歩きは
別次元の事。
 
6月初めからの山行きは10回近く記録されていますが、助手席での話し相手が殆ど
で、カメラメンテナンスを行ったのは3回のみ。

          
                     本年9月の山行にて

体力の限界と云う事なのか……。

生存の確認まであと少しと私の心が呟いているので、身体に鞭打ってもう少し頑張っ
て……と。

年末の慌ただしい時期にお願いと言っては何ですが、

2024年9月11日/9月21日当欄掲載の「ニホンオオカミを獲って食べた越後の人」/
「獲って食べた人の後日談」をご覧願えればと思います。

ご存じの通り「絶滅論」なるものは、「過去50年間に渡り生存に関する確かな事例が
見つかる事」です。

2024年9月11日/9月21日掲載の事例は昭和35年(1960年)2月に捕殺された為、2025年
現在では50年の区切りを越えています。

とは言っても、国内外10例に満たない「ニホンオオカミの毛皮標本」が新たに加わる
事にでもなれば……。

           
                    ニホンオオカミ捕殺現場


下記が9/11と9/21の記事を抜粋した一部です。

【「鼻面から尾の付け根まで約1メートル、尾が30センチ位で、尾の先は切り落と
したように丸くなっていた。

毛色は全体的に茶色っぽく、後頭部から背中にかけて黒っぽい毛が生えていて、肢は
細くて長かった。」

色々聞いた後でどの標本に似ているか、私が持参した資料を提示して見ますと、3人
とも大英自然史博物館の、いわゆる最後のニホンオオカミにそっくりだと言ったので
す。

          
                     大英自然史博物館の標本

動物の毛皮を弟(利友さん)が山奥から持ち帰ったのを見て、ほぼ強引に3.000
円で譲ってもらい、音松荘のシンボルとして宿泊者に見せていたのです。

皮をなめすのに8.000円を更にかけ、“ニホンオオカミの毛皮だよ”・・・と。

しかし、昭和40年頃の浅草岳の山開きの夜、40人の宿泊者に毛皮のお披露目をしたの
が、乙一さんとの別れとなってしまいました。

                                                     
                          浅井乙一さん


                
                              浅井利友さん

翌朝毛皮の紛失に気がついた乙一さんは、宿泊者全員にザックの中身の提示を求めよ
うとしたのですが、

村役場の担当者に「山開きのお目出たい日に、罪びとを出すのも忍び難いか
ら・・・」とたしなめられたそうです。

「泣く泣く諦めざるを得なかった・・・」と、私の前で悔しそうに語った姿が今も眼
に浮かびます。

           
                          当時の音松荘

―当時の小屋の宿泊者名簿を探って何とか毛皮の所持者まで辿り着きたいーと、話を
聞いてからずーっと思って居るのですが、未だ果たせずにいます。

この文を読んで戴いた方から、紛失した毛皮の情報でも手に入る事になれば・・・そ
んな思いで一杯なのです。】

昨年9月に上記記事を再掲載して『毛皮発見の手掛かりになるお便りが来ない
か・・・!?』そんな思いを抱いていますが、残念ながら2026年が訪れようとしていま
す。

早朝6:00出発の準備をしていたら、同行者のY氏がインフルエンザと云う事で不参加
の連絡。

当日の目的地は埼玉/長野/群馬の県境で、クマ出没可能性大の山域。

もう一人の同行者(この方もY氏で私もY)に「一人で大丈夫?」って聞くと「二人の
方が安全ですね!」と、やんわり否定します。


そんな訳で急遽目的地を変更し、Y氏が1ヶ月前クマに襲われた群馬県上野村の“ぶど
う峠”に向かいました。

          
                       ぶどう峠
 
朝食は上野村の道の駅でと思ったのですが、11:00からでないと食堂が開かないの
で近くの「川の駅」で、イノブタ入りのカレーライスで腹ごしらえ。

その後ぶどう峠に向かったのですが、30数年前上相木村の博物館に行った時は道路が
全舗装では無かったので、この度はスムーズに走れました。

          
                       川の駅でカレーライス 

               
                      峠上の道路標示
 
途中、1ヶ月前Y氏がクマに出逢った場所に出向いたり、30年前を忍んであちこち寄っ
たのですが、頂上手前の「御巣鷹山展望台」には小さな祠が有って、

日航機事故で命を失った「坂本九」さんを忍んだ座像が祀られていました。

                 

                    御巣鷹山展望台の祠

 

           
                       坂本九さんの座像

その祠から谷底に眼を転じると、何と!100m以上離れた処に乗用車が無残な姿で横
たわっていました。

           
                          無残な姿の乗用車 

           
                          無残な姿の乗用車
 
そんな状況に呆れて、標高1.504mのぶどう峠に車を乗り入れると、そこはもう冬の
世界。

震えながら雪をすくって眼を転じると「地蔵の社」と称する祠が有りました。

多分、日航機事故関連の祠でしょうからお地蔵さまに手を合わせ、フト足元に眼を移
すと小さな段ボール箱が置いて有りました。

段ボール箱には「ネコがいます」の文言と、ビニール袋に入ったキャットフードが少
しだけ。

若しかして、捨てられたネコが近くで震えているのでは・・・と考え、周辺を探した
のですが、何も見つけ出せませんでした。

           
                       地蔵の社 

               
                       「ネコがいます」の段ボール箱


奥秩父山中にも、同じ形でネコが捨てられたりしますが、人里から離れた峠上では、
初めての経験でした。

今となっては情けある人に拾われ、うまく生き延びている事を願うばかりです。