NPOニホンオオカミを探す会『井戸端会議』

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こんなメールが来たのは65日の事です。
 
【突然のご連絡失礼致します。
 私はNHKの番組を製作しております()エッジュの古池(こいけ)と申します。
 現在、NHK-BSプレミアム「ダークサイドミステリー」を担当しているのですが、9月中旬の放送回で二ホンオオカミをテーマにすることが決まり、ご連絡させていただいた次第です。
 番組HP https://www4.nhk.or.jp/darkside/
 
 これまで取り上げてきたテーマなどをあげるといかにも怪しげな番組と思われるかもしれませんが、一度は聞いたことのある話でも一体何が本当で、何が間違っているのか、検証していく番組です。
 ニホンオオカミの放送回の番組内容等をこれから決めていくのですが、先ずは八木さまのお話をうかがいたく考えております。
 急なお願いで申し訳ありませんが、直接お会いできるお時間を作っていただけますでしょうか?
 ご検討およびご返信のほど何卒よろしくお願い申し上げます。(私の希望としてはなるべく早くお会いしたいです)】
 
それに対し私の返事は、
【ご連絡有り難うございます。
番組はVTR録画し繰り返し見たりしていて、「やっとニホンオオカミ・・・」そんな気持ちです。
私たちは現在、東京、埼玉、山梨、群馬の県境近くに70余台のカメラをニホンオオカミの生存確認の為設置し、週1のペースでカメラメンテナンスを行っています。
帰宅後持ち帰ったSDカードの映像分析をしていますので、大変多忙な毎日です。
SDカードは外付けのハードディスクにファイルし、3テラのそれの残り僅かな状態でもあります。
そうした作業の中、昨秋、画期的な映像が収集され分析機関に依頼したのですが、結果として、「私たちが観測している山域にオオカミが居る」と確認出来た次第です。
丁度その頃、某社からある企画が持ち込まれました。
私がNPO法人を立ち上げた目的は「ニホンオオカミの生存確認」でして、法人としては10年弱ですが、その志は半世紀に渡り持ち続けて居りました。
持ち込まれた某社の企画は、正しくそれでして、否応なくその企画に賛同した事は云うまでも有りません。
某社は某局に私が撮り貯めた資料とその企画を提案し、長時間を要しましたが、「もう直ぐ実現する」所まで来ているそうです。
 
鹿逃げる・咆哮の場面
 
この度の提案は非常に興味惹かれる処では有りますが、某社のプロデューサーに相談しましたら、好意的な返事を貰えませんでした。
以上を踏まえ、お話を聞く事は構いませんが、希望に沿った答えを返せるか・・・と云う事です。
タイミングが悪かった・・・半年前だったら・・・
そしてニホンオオカミ研究の現在が、「ダークサイドミステリー」の番組内容に沿うものか・・・と考えるものです。 2019.06.06.  八木  博】
 
ダークサイドミステリー番組企画書
 
その頃丁度、当ブログに目撃情報が書き込まれまして、その対応に忙しい思いをして居ました。
そのやり取りの全てを75日「三峯神社行きのバスで」としてブログに掲載したのですが、目撃者から「情報引用が度を越している」とのお叱りを受け削除した経緯が有ります。
目撃情報は「530日に定期運行バスで三峯神社に行った際、車中で、
【首が長く、ヒョロッと寸胴な感じで、しっぽは巻かずストンと下がっていて、胴体に冬毛が白っぽく残っていて、頭と背中、腰から尻尾はパット見黒っぽい灰色。
薄茶にゴマ塩的な黒毛の渋が上がった毛色で、横向きだったが、犬に比べると頭も小さく感じた・・・野犬を見た!】と云うものでした。
 
1996年撮影の秩父野犬・・・こんな感じだったか。
 
そして、
【山から降りてきてバスの前を横切って、ガードレールを潜って行ったので、ドライブレコーダーには、絶対に映っていると思います!】との事も有って、バス会社との交渉を古池氏にお願いすることにしました。
放送ネタとしても恰好でしたので古池氏は迅速に対応したのですが、結果としてバス会社からの協力は得られませんでした。
そうした中、拙宅に古池氏を迎えた訳ですが、提示された番組企画書は「”ニホンオオカミ”に付いて検証。明治時代までは生存が確認されていたが、何故絶滅したのか?一方、その目撃情報は現在も絶えない。一体、その真実は!?」と云うもので、「番組作りの協力」に値しない内容でした。
過去に於いてNHKの番組には多数顔を出していますので、それを繋ぎ合わせて番組作りの提案をすると共に、上記「私たちが観測している山域にオオカミが居る」で確認出来た映像、その他諸々を提示し、『ニホンオオカミは絶滅していない』事の確認をいただき、お帰りを願ったのです。
 
拙宅での取材
 
それらの一切を山根一眞氏にも報告したのですが、山根さんからの返事は散々でした。
 
その数日後でした。
古池氏から連絡が有り、番組内容が『絶滅云々から、ニホンオオカミとは何ぞや?』に変更した事が告げられました。
つまり、私たちが前々から主張している「オオカミはいた。そして、ヤマイヌも。」に沿った番組作りになった…と云うのです。
であるなら、番組に不参加・・・の理由は無くなった訳で、出来る限りの協力を申し出た次第です。
そして、古池氏の山根事務所訪問後、あれ程頑なだった山根氏も鎧を脱いで、番組出演する事になったのです。
 
シンラ誌、「オオカミはいた。そして、ヤマイヌも。」
 
山中ロケは、710日三峯神社奥宮周辺で行われました。
当初、バスの中から目撃した方に、番組でのコメントをお願いしていたのですが、「メールのやりとりはお断り、私に対し信頼感が無くなった。」と云う事ですので、身近な方にお願いする事としました。
奥宮参道のオオカミ体験者が集中している処で、過去にブログでの発信をした方2名の方に、その時の様子を伺いました。
当欄「2013216日の咆哮」に掲載した矢口益男さん、20171111日に掲載した「ニホンオオカミの聖地」の照もさ子さんですが、もさ子さんは現在、ご自分の体験場所周辺に5台のトレイルカメラを設置し調査中です。
       
2名ともこの周辺で咆哮を
 
矢口益男さん
 
照もさ子さんと蒼穹号
 
放送日は、BSプレミアムで912日(木)の2100からです。
そして、皆さんのニホンオオカミへの概念が、若しかしたら変わるかも知れません。
是非御覧願えればと思う処です。
 
ロケ風景その1
 
(に写真11)ロケ風景その2
 
秩父野犬撮影現場で
哲学者・教育者の井上円了を皆さんご存知でしょうか。
 
井上円了は現在の新潟県長岡市で真宗大谷派慈光寺の長男として生まれ、29歳の若さで東洋大学の前身となる「哲学館」を創立した方です。
 
東洋大学関係の方なら良くご存知しょうが、私は最近まで全く知りませんでした。
 
同じ新潟県で、そう遠くない地域(旧越路町)出身にも拘らずです。
 
私が通った高校にも越路町から通って来た同級生がいたのですが、三波春夫の話が出ても、井上円了の事は全く話題にもならなかったのです。
 
 
 
井上円了の事を知るきっかけは、妻が手にしていたJR東日本発行のトランヴェールと云う小冊子でした。
 
新幹線の座席に置いてある物を面白そうだと持ち帰ったらしいのですが、次の旅行先を探している際に、私の目に触れる事となった次第です。
 
20169月号ですからかなり古かったのですが、その24ページに動物の上顎根付けが載っていたのです。
 
 
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トランヴェール20169月号 
  
 
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トランヴェールの24ページ
 
 
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牙形筆立の拡大写真
 
 
 
妻の背中越しに見たその根付け写真を、直感で「ニホンオオカミの上顎」と感じ、すぐさま井上円了記念博物館に連絡しました。
 
電話に出た学芸員氏の話に依ると、展示品は「井上円了研究センター」所蔵の為、調査の為にはその許可が必要との事でした。
 
それらの手順を踏んで619日(水)AM930に博物館に出向いたのですが、都心の住宅街に在る東洋大学に先ずビックリ。
 
秩父に向かう途中に在る同大学川越校舎をイメージしていたからです。
 
 
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井上円了の銅像と博物館
 
 
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井上円了記念博物館
 
 
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東洋大学白山キャンパス
 
 
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東洋大学川越キャンパス
 
 
 
それはそれとして、出迎えて戴いた研究センター所長等に挨拶後、肝心の標本を手にしたのですが・・・・・。
 
瞬間、「オオカミでは無くクマの上顎」である事を知ったのです。
 
 
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博物館での調査模様
 
 
 
提出した調査依頼書に
 
ニホンオオカミの標本は国内外に100余点散在しています。
 
その多くを観察してきた私ですが、当標本は未調査の上、過去に於いてその存在が知られて居りません。
 
研究センター所蔵で博物館展示の「牙形筆立」はニホンオオカミの上顎吻と思われますが、その確認の為の調査をお願いします。」
 
と記した様に、手にする瞬間までニホンオオカミである事を全く疑ってなかったのです。
 
 
 
今から25年前標本調査に足を踏み入れた当初、無知の塊だった私は好奇心だけが勝り、多くの失敗を重ねました。
 
「頭骨顎段(ストップ)が無ければオオカミ」と思い込み、クマの頭骨を師と仰ぐ井上百合子さんに報告したのもその一つですし、それ以前の問題として、タイプ標本の存在自体を知らなかったのです。
 
幾度も幾度も恥をかき、井上さんに赤面させて、そして今の私が有ると云って過言で有りません。
 
 
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ストップが無くオオカミだと思ったクマの頭骨
 
 
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60年ぶりに再発見したニホンオオカミの頭骨
 
 
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井上百合子さん(右)と吉行先生
 
 
 
ちなみに、自分の失敗を含む経験を踏まえ、HP上に多くの頭骨標本等を例示しているのですが、今回の間違いは本当に迂闊でした。
 
根付け標本の側面写真だったら全く問題無かったのですが、微妙な角度からの写真1枚で行動に移した訳ですから。
 
反省、反省、反省です。
 
せっかくの機会ですから、クマとオオカミの上顎吻端部を列して少し説明します。
 
クマの犬歯は基根部が太く、それに続く前臼歯の形状がオオカミの様に尖っていませんので、掲載した4枚の写真をご覧下さい。
 
 
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クマの上顎吻端部
 
 
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クマの上顎前臼歯
 
 
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ニホンオオカミの上顎吻端部
 
 
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ニホンオオカミの上顎前臼歯
 
 
 
トランヴェール内の「井上円了登場・学問になった妖怪」欄の撮影者は岡倉禎志さんですが、以前、秩父市内でお会いした事が有りました。
 
現在三峯博物館に納められている毛皮標本の、雑誌「シンラ」での撮影時ですが、岡倉天心の玄孫に当たると仰っていましたので、良く覚えています。
 
標本所有者は三峯神社に毛皮を納める際、岡倉さんから実物大(に近い)の写真をお願いし、現在も自宅に飾っています。
 
その写真は、いずれ私の手元に・・・と邪まな考えを持っているのですが、さてどうなることやら。
 
月日の経つのは早いもので、私ももうすぐ古希を迎えますが、それらは23年前の事になります。
 
 
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山根一眞の動物事件簿第5回目
 
 
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写真・岡倉禎志と
 
 
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23年前の岡村禎志さん
50年前の720日。
つまり1969年・昭和44年の720日ですが、皆さんこの日の事を覚えてますでしょうか。
人類が最初に月世界に足を踏み入れた記念すべき日なのですが、多くの皆さんは未だこの世に生を得ていなかったかも知れません。
私は苗場山頂の山小屋・遊仙閣で小屋番をしていまして、この日の事をはっきり覚えています。
人類が初めて月世界に足を踏み入れる・・・と云う事より、その瞬間をリアルタイムで見る為、大変な思いをしていたのです。

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アポロ11号月面着陸
 
小屋番アルバイトの一人が「世紀の一瞬をTVで見たいので下界に降りる」と言い張ったので、それを阻止する為中腹の小屋からTV受像機を担ぎ上げ、受像機の電源を得る為発電機を回し・・・と。
2.145mの山頂小屋の水は、山頂に散在する池塘からポンプアップで得て居ましたが、発電機を動かす為ガソリンを担ぎ上げていました。
その貴重なガソリンをTVを見る為に使用し、月の世界でのイベントが終わると受像機を下の小屋に下げ降ろし・・・と。
限られた人数の中で、一人が我が儘を言い出すと大変な事になる典型例です。

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苗場山頂は至るところに池塘が

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この中の一人が
 
アポロ11号の船長アームストロングの「人間にとっては小さな一歩だが人類にとっては偉大な一歩だ」の言葉は余りにも有名ですが、他の子供たちと少し違っていた私は、小学生の時フランスの小説家「ジュールヴェルヌ」の小説を盛んに読み漁っていました。
ヴェルヌの小説として有名な作品は「十五少年漂流記」「八十日間世界一周」「月世界へ行く」「海底二万マイル」「地底旅行」等が有りますが、50年前既に「地底旅行」以外は現実のものとなっていて、
アポロ11号についてもヴェルヌの小説通りになって来た・・・的な感想でした。
小学校の卒業文集に私は、将来「ジュールヴェルヌの様な空想小説家になりたい」と記していたのです。

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空想小説家ジュールヴェルヌ

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月世界へ行く
 
根底にそんな意識を抱いていた私ですので、今現在の様な生き方をしているのだと思います。
アポロ11号の9日後、1969729日の深夜、存在を否定されていたイヌ科動物の咆哮を耳にしたのですが、アポロ11号の件が無ければ現在の私は無かったかも知れません。
 
【中学最後の夏休みに、部活-バスケット-の仲間たちと苗場山(2145m)登山をしたのが病み付きとなり、高校の部活は迷う事無く山岳部を選択した。

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音楽部との合同登山だった
 
3年間の高校生活を、今思い出そうとしてもそのほとんどが山に関わる事である。
高校卒業後の就職を決める時も、何とか山小屋の仕事をしたいと考え、高校山岳部の先輩を頼って国土計画(株)と云う会社に入社した。
国土計画は近い将来訪れるであろう豊かな日本の、その人々の心を癒すべく自然との調和を想定し、リゾートポイントを多数抱えていた。
その一つが苗場山頂と三俣集落を繋ぐ長大なコースで、来るべき日の為、山頂と中腹に二つの山小屋を経営していた。
 
現在は神楽スキー場として一大リゾート化し、当時の面影を偲ぶ事は全く難しい状況であるが、その頃は鬱蒼としたブナの原生林で、私が管理していた中腹の山小屋の横には、一年中涸れる事の無い清水が、登山者の喉を潤していた。
ブナの原生林が持つ保水力に注視されるのは後年の事で、高度成長経済の下、商品価値の高い木の植林をする為、国内のいたるところでブナ林の悲鳴が聞こえていた頃の事である。
社内でも多くの仕事が存在する中で念願叶い、長野新潟の県境に位置する、苗場山(2145m)の山小屋の番人として、私は至福の時間を過ごす事が出来た。
夏山シーズンは山頂小屋遊仙閣の、それ以外の季節は中腹に在る和田小屋の番人として。

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和田小屋の屋根で昼食
 
今考えるとそれは、神様の一寸した悪戯だったのかも知れない。
信じられない位の月明かりで、登山道を電燈無しでも平気で歩ける満月の夜。
近々団体さんが来て、米が足らなくなる様子なので、中腹の和田小屋迄米を取りに行こうと言う事になった。
少なくとも2~3日の余裕は有ったし、何より翌朝1030分のバスで、湯沢の町に食糧を買出しに行く予定でいたので、その夜山を下らなければいけない理由など全くと云って良いほど無かった。
お伽噺であるかぐや姫の世界としての月に、わずか1週間位前人類初の踏み跡が刻まれた余韻を引きずってか、そのまま山頂の小屋で次の朝を迎えるのが何か惜しい様な物足りなさからか、月の明るさに誘われるまま、現役の高校山岳部員だったいわゆる”居候”の後輩を誘って、出かけたのだ。

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遊仙閣~和田小屋の概念図
 
コースタイムの上では登り4時間、下り3時間の所要時間なのだが、通い慣れた事も手伝って、それが当然の事で有るがごとく、深夜とも言える23時に遊仙閣を出発した。
苦もなく2時間後に和田小屋に着くと、各自背負い子に米をくくりつけ、休憩もそこそこに山頂小屋目指して歩き出した。

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50年前の和田小屋
 
上の小屋に米を降ろしたら、その足で10時30分祓川発の始発バスに乗り、湯沢町まで食糧の買い出しを計画していたのだ。
山登りを経験した人なら米1袋30Kgが、どんな負荷を感じるかお解かり頂けると思うが、若さに任せた無茶苦茶が、そのころは平気にこなせたのである。

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遊仙閣で登山客と
 
当時から、今でもそうだが、私の山での歩行ペースは、25~30分歩いて5分休憩。
その繰り返しで目的地まで歩き続ける。
1ピッチ目の休憩だったから小屋からさほど離れた所では無かった。
雨が降っても傘さえ要らない、伐採がまだ行われていない、山毛欅の原生林だった。
しかし心地よい月明りが差し込んでその光だけで不自由さは感じない、5人も腰を降ろしたら一杯になるような、狭いスペースに私たちは腰を降ろしていた。
 
肩のしびれから解放するように、少し肩と背負い子に空間をつくった後輩は、腰を降ろすと私からの話しかけにも答えなくなった。
寝たのかな?と思っていると、近くを流れているはずの沢の、その先の尾根筋の方から、かすかにだったが獣の鳴き声が聞こえて来た。
一声だけだったら、気のせいかな?と思える程の鳴き声だったのだが、間もなくはっきりと聞こえた第2、第3の鳴き声に私は慌て恐れて、寝入り鼻の後輩を大声で起こすと、荷物をそのままに、和田小屋へと走り帰った。
 
翌朝、居ない筈の私たちが食堂に現れると、上司である小屋番は吃驚してその訳を問いただして来た。
説明しても多分解ってもらえないだろう数時間前の出来事を一応話したのだが、話に割り込んだ手伝いのおばさん共々、朝食のおかずが1品増えた程度の笑い話で済まされて、多忙な山小屋の朝の流れに飲み込まれてしまっていた。
客観的に見て私が聞かされる立場であったなら、同じ流れになってしまったかも知れない事は予想していたし、第三者に同意を求める気持は更々無かった。
青年時代山歩きの真似事をした事の有る父から、山での不可解な出来事を幼心に聞いて来た私だが、見える物しか理解出来なかったその頃の私にとって、遠い国のお話程度にしか考える事が出来ないでいたからである。

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                  1966/4/10の和田小屋・左が上司の有間さん
 
好きだからこそ人里離れた山小屋での仕事を希望した私。
それを好意的に見守ってくれ、山毛欅の原生林の中で生活を共にしていた小屋の三人が、忙しさにかまけて笑い話で済ましてしまう現実。
同じ目線で考える事が出来た三人でさえ流してしまう笑い話は、違う空気を吸い、違う目線でしか考える事の出来ない人達にとって、きっと狂気の沙汰に違いない。
その時以来、他人に言うことはタブーだと考えるようになっていた。
 
山頂の小屋が気になっていた私は朝食もそこそこに、放置した荷物を肩に、慣れた山道を一歩一歩、山頂の小屋へと足を運んだ。
山頂に着いた私たちは、その日の湯沢行きをあきらめて、次から次に沸いて来る小屋番の仕事をこなしていたのだが、湯沢発の2番バスに乗ってきた宿泊者の情報に、唖然としてしまった。
何事もなく予定通りに、全てが順調に過ぎていたなら、本来私たちが乗っていたはずの、10時30分祓川発湯沢行きの乗り合いバスが、谷底に転落し重軽傷者の山となったというのである。

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                       バスの転落を伝える新聞記事
 
夏の、長い一日の全ての作業が終って一息ついた私は、疲れ切った体とは裏腹な妙に冴えた頭の中で、今までの人生で1番ドラマチックな一日だった昭和44年7月29日を振り返り、山日記に何を記そうか考えていた。
登山者数、宿泊者数、作業内容と記して行くと、祓川でのバス転落事故の内容を最後に翌日の欄に移り、その日のスペースは文字で埋め尽くされてしまった。
深夜の出来事をどのように記すか迷った私は、右端の僅かなスペースに縦書きで“獣の遠ボエを”の六文字を残して、深い眠りに就いた。】

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                       山溪刊のアルパインカレンダー

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                         その日の山日記