中学の頃のわたしはいじめられていた。


おしゃれさのかけらもない地味なメガネをかけたわたしは、おとなしく、人と話すことが苦手だった。とはいえ、それがすべての理由というわけでもないだろう。いじめる側にしてみれば相手は誰でもよかったのだと思う。たまたま、わたしが選ばれたというだけのことだ。


「いじめられる方にも原因がある」


こういった意見があると、問題発言だと社会的には相当な反発がある。

だが、大人たちが繰り返すいじめに対しての議論もどこがずれた部分があることは否めない。


もちろんいじめる人間が100%悪いことに異論はない。けれど、大人として客観的な目線で見るのではなく、自分が学生時代のことを思い返してみればいい。いじめる側の人間にもつきたくないが、いじめられる側の人間にも進んで関わりをもちたいというタイプの人間は少なかったことを思い出すだろう。


もちろん様々なケースがあるし、わたしなどには計り知れないほど残忍でいじめの域を超えたものもあることはわかっている。こういった問題を持ち出すと過剰に反応する人間が多いが、別にそういったひとたちを論破したいわけでもない。


なにせ、わたしは被害者側の人間なのだ。


わたしは被害者だけれど、ひたすらに自分の受けた苦痛を訴え、「いじめ」という問題を社会的にもっと真剣に捉えてほしい…などという気はまったくない。いじめられた経験があれば、すべての人間を愛せるわけでもないし、生理的に嫌いになるタイプだってたくさんいる。


「そんな、ひねくれた考え方だからいじめられるんじゃないか?」 と、読んでいるあなたは思うだろうか?


それならば、わたしは、 「いい質問ですねぇ~!」 と、池上彰ばりに目を輝かせて答える。

いじめられているのに、仕方のないことだと受け流すようなわたしは、いじめられる要素を十分に含んでいるし、なにより女としてかわいくない。

かわいい女はこんな風に長々と持論を語らない。


『かわいい女は語らない』もわたしの持論だ。