とある昼下がり地下鉄の駅に




「はぁぁい!持っちゃいますよおおお!」




という声が響いた。




何事かと思って目をやると




声の主は4歳くらいの男の子だった。





その子の母親であろう女性が5段ほどの階段を降りるためにベビーカーを持ち上げようとしている。




男の子はまだ小さなその手で自分の背丈より大きなベビーカーを掴み、母親に向かって叫んでいるのだった。




「はぁぁい!持っちゃいますよおおおおお!!」







なぜこんなベテラン味溢れる口調なのか非常に気になるが


幼いながらに母を気遣っているのだろう。


優しい子だ。




母親は男の子に「重いからいいよ、離して」と言った。



しかし男の子は頑としてベビーカーを離さず、叫んだ。




「持つぞおおおおおおおおお!!!」




天に向かって気合の咆哮を上げる男の子



幼きその腕には目一杯の力が込められているのが分かる。


そして、次の瞬間






「ダメだあああああああ!!重いよおおおおおおおお!!!」


と叫びながらその場にへたり込んだ。




あまりの愛おしさに僕は駆け寄って思い切り少年の頭を撫で回したくなったが、実行はしなかった。


それをしたら色々と失うことが分かるくらいには僕は大人だった。


28歳の頃だったらやってしまったかもしれない。
29歳になっておいてよかった。



結局、母親が軽々とベビーカーを持ち上げて階段を降り、その親子は駅へと消えていった。




ベビーカーを運ぶと言う点において、彼の行動は全く母親の役に立たなかった。




結局は母親が1人で持ち上げたのでベビーカーは1グラムも軽くなっていない。




物理的に見れば彼のした事は無意味である。





しかし彼の行動が無意味なものだったのかといえば、それは違う。



母親を想う彼の行動はとても微笑ましかった。



通行人である僕の心は温かくなった。



ベビーカーの重さが減らずとも、母親はその心が嬉しかったはずだ。



男の子の行動はベビーカーは動かせなかったが、何人かの人の心を動かした。



それは目には見えないけれど、たしかに意味のある事だ。









なんだか少し、僕の仕事に似てるなと思った。



労力を費やして物を運んだり、物を生み出したり、生産性があるわけではないけれど


やる前と後で、何かが変わっていて


確かに動いているものがある。


それは目には見えないけれど、確かに意味のある事。



やっぱりエンターテイメントの仕事も悪くないなと思った。



そんな、とある昼下がりの出来事だった。




安孫子宏輔