前回のあらすじ





安孫子は目が覚めたらマンチカンになっていて部屋には蚊が侵入していた!





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僕の渾身の平手打ちを躱した蚊は僕を挑発するかのように部屋の中を我が物顔で飛行していた。




しかし、いかに復讐の鬼と化していても自分の何百分の一の体積にも満たない虫の安い挑発に乗る僕ではない。



余裕を持って距離を詰める



フリをして飛びかかって左フックを放った。



もうめちゃくちゃ本気だった。



挑発に乗りまくりだった。



左手の微かな手応えから僕の渾身の左フックは命中したと確信した。



しかしやはり僕は冷静ではなかった。



本来なら両手でパチンと挟むべきところを僕は怒りに身を任せて左フックを放った。


空中の蚊に左フックを当てたところでただ押しただけである。


蚊にダメージは無い。


しかもそのせいで姿を見失ってしまった。



部屋で蚊を相手にする時、一番いけない事は姿を見失う事だ。


姿が見えない敵に狙われ続けているという事実が、休息の場所であるはずの自室を危険区域へと変えてしまう。


結果、精神的なストレスがかかり夜中にポテチを食べるなどの行動をとってしまうかもしれない。



夜中にポテチは食べてはいけない。



そんな事をしたら罪悪感に苛まれて自分を責めてしまう。


そしたらそのストレスでまたポテチを食べてしまう。


こうしてポテチしか食べられなくなって、ポテチループの中に閉じ込められて出て来れなくなる。


部屋で蚊を見失うという事は高血圧、肥満、肌荒れにもつながる恐ろしい事なのだ。



このままではいけない



僕は一度冷静になるために深呼吸をした。



オーケー、僕は冷静だ。



洋画の吹き替え風に自分に言い聞かせたところで左手に違和感を感じた。



見ると



蚊に刺されていた。




なん…だと?



まさか



まさかさっきの左フックは当たっていたのではなく



僕の全力の左フックを見切った上でその手に止まり、一瞬で血を吸っていた?



そんな芸当ができる蚊が存在するとは…



しかし、事実として僕の左手は痒みと共にどんどん膨れている。






認めよう。



奴は強者であると。



今まで葬ってきた凡百の蚊とは違う猛者だと。




そうと分かればつまらぬプライドなど捨てて、僕の全てを持って相手をしよう。



ここからは総力戦だ。



そんな僕の心を察したかのように奴は視界に現れた。



僕は見失わぬよう注意しながらジリジリと距離を詰める。



すると、奴が突然姿を消した。



「これは…保護色か!」


背景の色に紛れる虫特有の高等テクニックだ。


しかし、この対処法を僕は知っている。


蚊は黒に紛れる


常に蚊の背景を白に保つようにアングルを変えればいいのだ。



僕は地を這うように身体を屈め、白い壁と天井に奴の姿が写るようにして姿を捉え続けた。



部屋で一人、まるでスパイダーマンのように動き回る大男の姿はなかなかに滑稽だったであろう。



しかも途中でテーブルに足をぶつけて悶絶している間に姿を見失ってしまった。




「なかなかやってくれるじゃないか…
しかし次に姿を表した時が貴様の最後だ!」



僕は臨戦態勢で蚊が現れるのを待った。



しかし、それを嘲笑うかのように蚊は一向に姿を表さない。


今出てきたらやられるという事を分かっているのだろう。


頭の切れる奴だ。



しかし、頭脳戦で人間に勝てると思ったら大間違いだ。



虫には習性というものがある。


蛾などが光に集まるのがそれだ。


そして蚊は二酸化炭素に寄ってくる事を僕は知っている。


いかに奴の頭が切れようが、生物としての本能に敵うわけがない。


僕は奴を誘き寄せる為に呼吸を荒げた。






ハア、ハア










ハア、ハア










ハア、ハア、ヘァ









奴は現れなかった。



僕が部屋で一人ハアハアしただけだった。



虫としての習性にすら打ち勝つとは、なんて奴だ。






何か、、


何か奴を呼び寄せる方法はないのか!



僕はその明晰な頭脳をフル回転させて考えた。



そして、実に知的かつ効果的な方法を閃いてしまった。


蚊は肌の露出している部分に寄ってくる。


刺されないようにするには肌を隠せばいい。


では、蚊を呼び寄せるには?



肌の露出を増やせばいいのだ。




僕はおもむろに服を脱ぎ、裸ん坊になった。





抗えまい。


どうだこの魅力には抗えまい!



蚊にとっては空腹時に特上のステーキを目の前に出されたようなものだ。


奴はたまらず僕の身体に飛びついてくるに違いない。


そして、肌を露出した事により感覚が敏感になっている。


奴が身体に止まればすぐに察知できる。



完璧な作戦だ!






と、普通の者ならここで勝利を確信して油断するのだろう。


しかし僕には油断も慢心もない。



そして奴が普通の蚊ではない事をもう十分と言うほどに知っている。



僕はこの完璧な作戦に無慈悲とも言える一手を加えた。













ハアハア





ハアハア




僕は呼吸を荒げた。




どうだ!

特上のステーキにさらにシャリアピンソースがかかったようなものだ!逆らえまい!




そして待つ事10分






奴は出てこなかった。




気づけば僕は部屋で一人裸ん坊になってハアハアしていた。




屈辱である。




一匹の蚊にここまで振り回されている時点で負けである。



僕はそれから、いつ蚊に刺されるかという恐怖に怯えながら毎日を過ごしていた。



出てきたら絶対に逃さない。



そう意気込んでいたが、奴は現れなかった。




そして3日後の朝、僕がパンダの赤ちゃんのように日本中からの愛を一身に受けながら目を覚ますと


枕元に奴がいた。


僕はすぐさま飛び起きて奴に張り手を放ったが、命中する直前で異変に気づきその手を止めた。



そして、ゆっくりと指先で奴に触れる。



微動だにしない。



奴は死んでいた。



なんて蚊だ。




出てきたらやられると分かっていたから、自分の本能に逆らい続けたのだ。



そして3日経ち、僕の気が緩んだ所を狙い



その直前で力尽きたのだ。








完敗だ。




ついに僕は奴を倒せなかった。




間違いない。奴は過去最強の蚊だった。



僕は今はもう飛ぶことのない一匹の蚊を優しく拾い上げ


ベランダから大空へと放った。



その亡骸は風に乗り、一度だけ羽ばたいたように見えた。










安孫子宏輔