マイケル・ジャクソンとマドンナが取り合った日本人「Kento Mori」(モリケント)
そんな彼の奇跡の様な夢物語です。

2009年2月のインタビュー記事。(日刊スポーツより抜粋)
去年2月に所属するエージェントを通じてオーディション情報があり、
ロサンゼルスで2日間に渡って行われたオーディションに参加。
1000人を超えるダンサーの中から唯一の日本人として
マドンナのバックダンサーの座を得たKento Mori。
「マドンナも3次審査から参加しました。踊り終わった後で、
“グッド”と僕に向かって合図してくれたので、
かなり手ごたえがありました。終わった後で挨拶した時に、
“今日の中であなたがベストだったわよ”と言ってもらったことは
とても良く覚えています。マドンナにすべての決定権があるので、
彼女に気に入ってもらえたことは嬉しかったですね」
ツアーでは、「Music」など5曲に参加。8月に英国からスタートし、
欧州、北米、南米を回ったツアーは、昨年末まで4ヶ月間に渡って続きました。
ディーバ、マドンナのバッグダンサーはさぞかし、気苦労も多かったのでは?
と勝手に想像していましたが、実際にはとても謙虚でスタッフ想いなのだとか。
「僕にとってはとても良い人という印象しか残っていません。
クイーンという世間一般のイメージがありましたが、
実際には愛があって、とても謙虚な人。プロフェッショナルで、
誰よりも独力 を惜しまない。ダンサーを一人のアーティストとして
見てくれる。私の人形というのではなく、一緒にステージを作るという
雰囲気が感じられる現場でした。セレブが集るパーティーにも
必ずダンサーやバンドのメンバーも呼んでくれる。
ダンサーとして手に入る給料も、世界最高の額だと聞きました。
ホテルも移動もすべてが想定外の扱いで、一度マドンナと仕事をすると、
他の仕事ができないと業界では評判なほど、扱いは最高に良かったです」
ツアー中もっとも印象に残ったのは、マドンナの前で
マイケル・ジャクソンを披露したことだったそうです。
「ロンドンのクラブで行われたマドンナの50歳の誕生日パーティーが
一番印象に残っています。娘さんがピアノの弾いて、旦那さんが
スピーチしたり、本当に親しい人たちだけが参加したパーティーでしたが、
そこでマイケルを踊ったんです。マドンナはパーティーで自分のダンサーに
リクエストして踊らせるのが好きなんですが、そこで”Kento踊って”と
言われて。俺がマイケルを好きなことを知っているDJがマイケルの曲を
かけてくれたので、即興でマイケルをやったんです。
マドンナの前でマイケルをやって良いのかな?とちょっと思ったんですけど、
マドンナは手を叩いて喜んでくれました」
ダンスを始めたきっかけは憧れのマイケル・ジャクソンでした。
そのマイケル仕込みのダンスをマドンナに認めてもらえたことが、
一番嬉しいことだったと言います。
「ローマのパーティーでも、マドンナが自らマイケルの曲をかけて、
踊ってといわれて。僕をケント・ジャクソンって呼ぶんですよ。
あとは、かつてマイケルと仕事をしていた振付家やディレクターたちと
一緒に仕事ができたということは、本当に大きな財産になりました。
映像で見ていた人たちと一緒に食事や仕事をして、夢が叶った気分でした」
マイケルを崇拝する彼は、05年4月に単身でロサンゼルス留学。
留学直後からNBAのハーフタイム・ショーやミュージックビデオなどで
ダンサーとして活動を始め、わずか数年でマドンナのバックダンサーという
大きなチャンスを手にしました。今夏からはマドンナの追加公演に再び
参加することが決まっている他、映画「Squeegee Lo」への
出演も決まり、俳優デビューも果たす予定です。
「ダンスの技術的なことは実は18歳まで習ったことはなかったんです。
東京のダンススタジオに通って本格的に習い始めましたが、
すぐに何か違うと思いました。そんな時に訪れたロサンゼルスに魅了され、
年に何度か訪れるようになりました。子供の頃からずっとマイケルの曲を
聴いて、ビデオを毎日観ていたので、感性は幼い頃から養われていたのだと思います」
将来の夢は、マイケルのようなスーパースターになること。
渡米3年弱でつかんだビッグチャンスを足がかりに、
憧れのマイケルと仕事できる機会を狙っています。
「今の夢はマイケルと一緒に仕事をすること。叶ったら死んでも良いですね(笑)。
マイケルがまだ仕事ができる状態なら、彼自身の目で俺を見て、
俺を使いたいと言ってもらうことが今の夢ですね」
その2へ続く