丙寅洋擾(병인양요)が何か、ネットで調べてみました。
 
世界中が近代化と植民地争奪戦の激しい中
1866年10月、フランス人宣教師9人が処刑された。(丙寅教獄
怒ったフランスが、朝鮮に対して攻撃をしかけたのが、丙寅洋擾
 
 
フランス軍のギュスターヴ少将の有名な言葉
「彼らは9名のフランス人を処刑した対価として、9000人の死で償う事になるだろう」
 
 
 
 
 
 日本語
海軍力と火力での圧倒的に有利なフランス軍は、
短期間で江華島を侵略する事が出来た。
朝鮮軍は、攻め込むフランス軍に一斉砲撃を加えることにより、
フランス軍は戦死者6人を含む60人の死傷者を出した。
これによりフランス軍は江華島を撤収した。
この戦いは、韓国史上初の西欧帝国主義の侵略を撃退したという
歴史的意義があると拡大解釈しているが、
後日、1867年3月に米国がゼネラル·シャーマン号事件で辛未洋擾を起こすとき、
フランソワ政府との共同報復を提案したが、
フランスではすでに朝鮮遠征を通じて報復したため、米国の共同遠征を拒否した。すなわち、フランス政府はこの戦いを成功だと正式に認めたのである。
勝敗は、歴史事実の認識により表と裏の関係で両者とも自らが表側と認識して、
両者とも勝利を宣言する事になる。
李氏朝鮮は勝利と考えることにより、
自国が植民地獲得競争の標的になっている事を理解する機会を失った。
小さな紛争で勝利した事に喜び、国を失う事に向かっている事が気付かなかった。
フランス軍は、撤退した時に
外圭章閣図書345冊と銀塊19箱を戦利品として持ち帰った。
 

江華島沿岸を攻撃するフランス海軍
 
 
 
 韓国語
1866年1月、大院君は鎖国政策の一つとして天主教弾圧令を下し、
9人のフランス人宣教師と数千人の朝鮮人信徒を処刑した。
この時脱出した3人のフランス人神父がフランス軍艦ローズに知らせた。
この事件は、1846年、1847年の2回に渡り朝鮮侵略に失敗したフランスには、
絶交のチャンスになった。
1866年8月10~22日に第1回遠征
江華島~ソウルまでの水路探索した後、軍を強化し、侵略の準備を強化した。
同年9月、フランスの侵略軍は江華島を占領し、
フランス人9人を殺したので、朝鮮人を殺すと言いながら、
通商条約を結べと脅迫した。
結果は、文殊山城と鼎足山城の戦い.に勝利した朝鮮の勝利に終わった。
この時フランスは、撤回しながら、
大量の書籍や武器、金銀塊などを略奪して行った。
 
 
 
 
 
 日本語と韓国語のサイトの要約を載せておきました。
関心のある方は、読み比べてください。
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