5月18日を前後して、たまたま光州に行ってて、ちょっと関心を持ったので・・・・

 
5・18光州民主化抗争とは
1980年5月18日~5月27日
全羅南道及び光州の市民達が、
戒嚴令の撤廃全斗煥退陣、金大中氏の釈放を要求した民主化運動。
当時の政府の指揮官は全斗煥
犠牲になったのは、大多数が光州市内の学生、及び市民達。

 

 

 
 
 
1979/10/26朴正熙大統領が殺害され、大統領代行体制がなされた。
新軍部の全斗煥魯泰寓らは軍事クーデターを起こした(12,12事態)
武力で一瞬に政権を把握した新軍部は、非常戒厳令を出し、
不満が爆発した市民は抵抗運動を起こしてた。
 
1980/5/15(木)全国学生連盟ソウル駅で大規模の民主化デモ
5/17(土)新軍部、非常戒厳令を全国に拡大 
 
 
1980/5/18(日)全南大学の学生50人が戒厳撤廃、休校令撤廃を要求しデモ
軍の鎮圧で、学生達は血を流してクンナン路に移動。

 
5月19日(月)、戒厳軍の暴力鎮圧に激怒した市民達が、戒厳軍と投石戦
朝鮮大付属高校の生徒が、軍の発砲で負傷。
 
 
5月20日(火)、高校休校令。
カトリックセンターの前で、男女30人が裸にされて、軍から殴打を受ける。
クンナン路でタクシーなど200台ほどでデモ。
派出所放火、市民軍のバスによって警察官4人が死亡、
放送局放火(光州MBC)、市民2人が死亡。
 
 
5月21日(水)、市外電話が断絶。別の放送局放火(光州KBS)
デモ隊と軍が衝突。光州税務署全焼。
大型ヘリが道庁に到着。軍、奇襲射撃。市民は軍の射撃で死者続出。
デモ隊の代表が戒厳軍の撤回を要求して全南道知事と協賛したが、
12時まで撤回の約束を守らず、無償。
戒厳軍、道庁の屋上から無差別射撃。
市民軍は、全南地域の予備武器庫から武器を調達。
外地から来たデモ隊も一緒に道庁前で銃撃戦。
市民軍、全南大病院の屋上に機関銃2台を設置。
戒厳軍は道庁から朝鮮大に移動。
 
 
5月22日(木)、道庁前広場とクンナン路に市民達が集まり、
負傷者の治療や献血に回る。
道庁の屋上の国旗は黒いリボンの反旗になっていた。
宗教人、教授達が中心になり、「5・18収集対策委員会」を結成。
戒厳分所を回って収集案を伝達。
 
 
5月23日(金)、収集委員会は学生や市民達に掃除の協力を願う。
約5万人が道庁に集まる
また、死者の名簿作成や死者の身元確認も始まる。
チュナンマウル前で、軍部隊、小型バスに銃撃。17人死亡。
第1回、民主呼訴汎国民蹴起大会 
これ以上の犠牲者を出さない為、収集対策委員会は、市民軍に武器返還を命じる
しかし、戒厳軍が要求を受け入れなかったので、市民の武装解体も受け入れず。
ここで、収集委員会も、強硬派と温厚派とに分かれ、対立するようになる。
結果、戒厳軍が要求を受け入れるまで闘争を続けようとする強硬派が勝利
 
 
5月24日(土)、軍部隊、池で泳いでた少年達に射撃。
ソンアム洞で、軍と全教部隊との市街戦発生。
 第2回、民主呼訴汎国民蹴起大会
 
 

5月25日(日)、金壽煥樞機卿 https://ameblo.jp/candy211jp/entry-12447163802.html の
メッセージと光州抗争救護対策費1000万ウォンを伝達。
第3回、民主呼訴汎国民蹴起大会。
キムソンヨン神父の4項目収集案を満場一致で採択。
学生収集対策委員会、犯罪発生予防や食糧問題、掃除問題など論議
  
 
5月26日(月)、戒厳軍、農村振興院の前まで進出。
収集委員会、戒厳軍の市内進出を防ぐ為、死の行進。
第4回、民主呼訴汎国民蹴起大会。光州市庁に生活必需品の要求。
第5回、民主呼訴汎国民蹴起大会。
学生収集委員会、外部の記者に光州の状況をブリーピング
戒厳軍が今夜攻撃する可能性があるとして、幼い子供と女を帰宅させる。
市内電話、すべて断絶
 
 
5月27日(火)、タンクに乗った戒厳軍、市内に侵入。クンナン路で市街戦。
戒厳軍、道庁の中の市民軍を無差別銃撃。
戒厳軍、道庁と市内全域を掌握。鎮圧作戦終了
道庁を軍部隊に引継ぎ、市内電話開通。
  
 

    

1988年第6共和国の公式発表によると、死亡者191名、負傷者852名
6・25戦争以来、最大規模の犠牲者をだした。

 

 

5月は家庭の月。韓国中いたる所でお祭り行事が多いが、
光州の大学では、絶対に5月には大学祭はやらないという。
 
 
 
以下は、光州事件のテーマソングになった、「任の為の行進曲」
 

 

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 生々しい写真のあるブログをひとつ紹介しておきます。

 

 

 

 

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