1ヶ月ほど前から病院に入院したきり、面会謝絶だった元大統領が、今日亡くなったそうです。
85歳。
1998年~2002年まで、大統領。
初めて南北首脳会談を実現した大統領でした。
金正日対談で、離散家族対面を実現し、金剛山観光も可能になりました。
そういう、北朝鮮との関係で、ノーベル平和賞を受賞しています。
また、この大統領の時期に、それまで禁止されていた日本文化が開放され、日本との交流も活発になりました。

 


私が中学生の頃、韓国では光州民主化運動が勃発して、
日本のテレビでも「金大中氏(キンダイチュウ氏)」という名前がよく報道されてました。
その方が、韓国がIMF時代を迎えた時、経済的救出をしてくれた「金大中大統領(キムデジュン)」でした。
明日には、金大中元大統領の故郷、全羅南道からロケットが発射されるという日、その前日です。。


ご冥福をお祈り致します。。。



金大中元大統領に関して詳細は↓
http://wkp.fresheye.com/wikipedia/%e3%82%ad%e3%83%a0%e3%83%bb%e3%83%87%e3%82%b8%e3%83%a5%e3%83%b3
以下、上記サイトより抜粋

< 政界入り>
25年(大正14年)全羅南道荷衣島(現在の新安郡)生まれだが、本貫はこの地域と対立していた慶尚道の金海市。43年(昭和18年)木浦公立商業学校(現全南第一高校)卒業、慶煕大学大学院経済学科2年課程修了。運送業を経て、1954年の総選挙で国会議員に初挑戦するも落選。張勉に引き立てられ、民主党スポークスマンを務める。以降も、当時の李承晩大統領の政策に反対する姿勢で活動したが、1959年、1960年と立て続けに落選を経験した。1961年に補欠選挙で国会議員へ初当選しているが朴正煕による軍事クーデターにより無効となっている。その後は野党政治家として活躍し、1963年と1967年の第6代、第7代、国会議員選挙で連続当選し、とうとう1970年9月に新民党の大統領候補に指名される。翌1971年の大統領選では現職の朴正煕に97万票差にまで迫った。この大統領選の直後、交通事故を装った暗殺工作に遭い、股関節の障害を負うことになる。


 <民主化運動家として>
朴正煕による十月維新の後は日米両国に滞在しながら民主化運動に取り組んだ。1973年(昭和48年)8月8日、東京に滞在中、ホテルグランドパレスで謀殺を意図した韓国中央情報部 (KCIA) によって拉致され、ソウルで軟禁状態に置かれた(金大中事件)。1976年3月には尹潽善らと共に「民主救国宣言」を発表、逮捕され懲役判決を受けるも、1978年3月に釈放される。1980年2月19日には公民権を回復・政治活動を再開するが、5月18日に再び逮捕。これが原因となって光州で起きた民主化要求のデモを軍部が鎮圧し、流血の惨事となる(光州事件)。このため軍法会議で首謀者として死刑判決を受ける。このことに対して、当時の鈴木善幸首相は、11月21日に崔慶禄駐日大使と会談し「日韓親善からみて、金大中の身柄に重大な関心と憂慮の意を抱かざるを得ない」と発言し、その旨を全斗煥大統領に伝達するよう要請した。この事を受け、朝鮮日報は11月25日付の紙面で、鈴木発言を「内政干渉である」と批判した。しかし、次第に死刑判決に対する国際的な批判が強まり、1982年1月23日に閣議決定により無期懲役に減刑される事が決定し、12月23日に米国への出国を条件に刑の執行を停止される。

1985年2月8日に亡命先の米国からの帰国を強行し軟禁状態に置かれたが[要出典]、3月6日に全斗煥大統領により政治活動を解禁される[2]。1987年には再び公民権を回復、大統領選挙で平和民主党を結成し、盧泰愚に挑むものの、金泳三と分立したことが文民勢力の分裂を招き敗北。1992年にも再び金泳三、鄭周永らを相手に大統領選を戦うも敗北。これをもって金大中は政界引退を表明した。その後研究生活に入り、論文を書く日々を送っていたが、次回大統領選挙に向け動向に注目が集まっていた1995年、新政治国民会議を結成し総裁に就任。政界復帰した。


< 大統領として>
1997年の大統領選挙では与党ハンナラ党の李会昌、ハンナラ党内での予備選に敗退した李仁済を相手に戦った。与党の強力な集票力に当選を危ぶまれたが、保守派であり朴正煕の片腕だった金鍾泌と手を結び(いわゆるDJP連合。ちなみに両者は共に金海金氏である)、また度重なる敗北を逆手に取り「準備された大統領」をキャッチフレーズに戦い、アジア通貨危機への対応能力をアピールした。結果、自らの地盤である全羅道地域で圧倒的な支持を得、金鍾泌の地盤である忠清道地域、浮動票の多い首都圏での支持を得ることに成功した。また、李仁済の立候補により保守票が割れたことにも助けられ、当選した。

大統領に就任したのはアジア通貨危機の直後であり、経済的な危機はつづいていた。金大中政権は引き続きIMFの介入を全面的に受け入れたうえで、経済改革に着手した。IT産業奨励やビッグディール政策(財閥間の事業交換、統廃合)をもって経済建て直しを図った。危機を脱した韓国は内外から「IT先進国」と呼ばれるようになり、サムスン電子や現代自動車の世界市場での地位を高めた。しかし、急激な産業構造の転換は貧富の格差の増大などを招いた。そのため、医療保険や年金など福祉政策の拡充にも重点を置いた(DJノミクス)。

 <ノーベル賞受賞者 >
受賞年:2000年
受賞部門:ノーベル平和賞

北朝鮮に対しては太陽政策と称される宥和・関与政策を志向した。2000年に、北朝鮮の平壌で金正日との南北首脳会談が実現。南北首脳会談などが評価されノーベル平和賞を受賞した[3]。太陽政策は任期中、宥和政策として機能したが、関与政策としての役割を果たしたかどうか議論の余地がある。

自ら中央情報部に拉致された金大中だが、1999年には国家安全企画部(旧・中央情報部)を廃止し、大幅に縮小した国家情報院を大統領直属機関として新設した。

朴正煕、全斗煥、盧泰愚、金泳三と4代続いた慶尚道地域出身の大統領から全羅道地域の金大中へ権力が移ったことにより地域対立の打破が期待されたが、当選時の経緯や、共に与党である新政治国民会議と忠清道地域に影響力を持つ自民連の統合が頓挫したことにより、この分野では目覚しい成果を上げることが出来なかった。


< 大統領退任後と晩年>
退任後は政界を引退した。延世大学校付属の金大中図書館設立に携わるなど政治とは距離を置き、研究生活を送っていた。

併合時代の朝鮮における日本語教育を受けており流暢な日本語を話すことができたため、非公式な場における日本のマスコミ向けのインタビューでは日本語で応じる事が多かった。

韓国国内での日本大衆文化開放を始めたのは、金大中政権からである。

2006年6月に北朝鮮を訪問する予定であったが、北朝鮮のテポドン発射問題によって取り消された。

2008年11月27日に、民主労働党指導部に対して「民主労働党・民主党・市民社会団体がしっかりと手を組んで広範囲の民主連合を結成し、逆走を阻止する闘争をすれば必ず成功するはずだ。李明博政府の非核・開放3000政策は失敗した米ブッシュ政権の政策である」と述べた[4]。

2009年7月13日に三たび持病の肺炎を患う。同年8月18日にソウル市内の延世大学校医療院セブランス病院で死去。85歳だった。[5]また、盧武鉉の死去と同じく、韓国の大手サイト(ネイバー、ダウム、ネート、Yahoo!、Google、MSN)では、トップのロゴを白黒に差し替え、特設ページも設けた。なお、この年の5月には前大統領である盧武鉉が死去しており、その4ヵ月たらずで大統領経験者が死去したことになる。

 

 

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