芦屋から大垣にきたとこまで書いた、前回
忘れないうちに書いとかねば・・・
大垣から養老鉄道にのった
↓ちゃりもそのまま乗れる鉄道列車
フィンランドのバスおもいだすな
犬も一緒にのれるバス
えーと横道にそれてばかりだとなかなか進まず記憶はどんどん彼方へいく
養老鉄道のつり革↓
お金をだしてつり革にひょうたんをつけることができるのかな?
読んでておもしろい
「養老鉄道ありがとう!」っていうのが多い
通学してる人が多いのだろう
うちからちゃりで駅まできて
養老鉄道にそのままのって
駅からちゃりで学校へいくんだろうなー
トモエ駅↓
母の名前の駅
漢字は違うけど
昔はトモエ駅が目的地の最寄り駅だったそうだ
それが大垣南高校ができてからトモエ駅の次に大外羽駅ができたので最寄り駅は大外羽駅
↓
自動販売機とホームに東屋があるのが救い・・・
雨や雪が降ってル時電車を待つ間、雨雪をしのてる場所があれば救われる
問題↑
わたしはどこでしょう?
電車からおりたのはわたしひとりだった↓
ルーツの旅の一番の目的
わたしのひいじいちゃんの生まれた場所をみにいくこと
そこは戦争中、父とおじさんおばさんそしてばあちゃんが疎開した場所でもある
戦争が終わったのは1945年
父9歳のとき終戦
その年に疎開をしていた岐阜縣安八郡洲本村大字川口36番
大垣から10キロは離れてない場所
大外羽駅を降りるともちろん商店街など広がってない
わたしは都会育ちだから駅の周辺に商店街は広がってるもんだと33歳まで思ってた
それが違うと身をもって知ったのは敦賀から東舞鶴までかえったときのことだ
終点の東舞鶴についてさぁ西舞鶴まであと一駅で向かいの電車にとびのった
ところがその電車(いや、当時はディーゼルだった)は東舞鶴から西舞鶴へいくと思った列車は
なんといまきた敦賀方向へガタンガタンとはしりだしたのだった
次の松尾寺駅で下車した時、日はとっくに沈み、あたりは闇夜
降りる人はだれもいない
時刻表で東舞鶴行の時刻を見たら、2時間さきだった
まぁいいや、タクシーかバスに乗ろうと無人改札をでたとき初めて知った、商店街などない駅があることを
バスもタクシーも商店街があるからあるのだ
なにもない駅、松尾寺、あるのは道、国道27号線
33歳でそのような駅があることをはじめてしった世間知らずな我
それでも松尾寺駅はまだよい、目の前に国道がひろがってる
大外羽駅の前に国道はない、細い道、田んぼ
それでもまだ舗装されているからよしとしよう
雨の予報だったけど曇りから少し陽もさしてきた↓
ぐんぐん歩く
駅から東の揖斐川の方向へ
小さい川がたくさんあってそのひとつ
橋を渡った↓
用水路がいたるところに↓
↑大きなお屋敷も
3月に旅したとき
わたしは暗闇の中でいきなり2メートル下の側溝へ落ちた
夜はぜったいであるいてはだめだ
ここも、暗くなったらわたしは落ちるだろう
あかるいうちに帰らねば
途中のお地蔵さま↓
↑ほんとに水路がおおいな
こういう場所は大好き
ひいじいちゃんの生まれた集落までもうすぐ↑
この青い鳥居はなんのマークだろうか?
歩くこと35分
ほんとなら25分くらいだけどわたしは
あぜみちの花の種を拾ったり杉の子を抜いたりしてたのでちょっと時間がかかった
↓集落の入り口くらいに石碑が現れた
なんだろうと思って近づいて見ると
父の名字の碑がたってた
父の名字、つまりわたしの旧姓は「ハヤフジ」という
陸軍歩兵軍曹勲7等功6級「ハヤフジ正巳」さんてかたの碑だった
昭和14年11月に建立されてたのできっと父も疎開したとき見たと思うのだが彼の記憶にはのこってなかった
ちょっとおどろいたのが、この碑を建てた人の名は母の旧姓と同じだったことだ
父が疎開したとき、この地の最寄り駅は母の名「トモエ」だし「ハヤフジ正巳」さんの碑を建てた人は母の旧姓だし
推理小説なら、こういうの伏線が張られてるっていうんだろうなーって思った
9歳の父の未来へ伏線がはられていたジャーン
集落は民家がまばら↓
ひとっこ一人あるいてなかった
時刻は12時49分
まぁお昼時だからかな・・・
ってことで突き当たりの「水門川」の土手に上がってみる
↓
水門川はそんなに大きな川ではないが一級河川
すぐ東にある揖斐川の水量を調整するための川なのかな?
江戸時代とか昔「ハヤフジ」家はこの水門川の水量を調整する役目をになってたそうだ
水門川の土手から大垣の方向を見る↓
桑名方向を見る↓
父は疎開中、食べ物をもらいにこの土手を通ったそうだ
大八車をひく祖母の後ろから押したんだって
わたしのひいじいちゃんもきっと土手にあがってこの景色をみてたろう
後半へつづく~