ちまちま
自分を塞き止めてるものはなんなんだろう
塞き止めてるものが多いと日々エネルギー漏れまくりで呼吸しづらいことこの上ないけれど、とっちらかった部屋のいらないものを仕分けして処分してあるべきものをあるべきところにおさめたり配置を変えたりして見慣れた空間に新たな発見をしたりして一人静かにムフフ…と達成感に満たされる快感のように、塞き止めてるものの正体を探っていく楽しさとそれによって微かにだけれど確実についてくる精神のしなやかな筋力が増し可動域が広がっている実感も中々の快感で。
(しなやか、って自分が思ってるだけで客観的にみたら偏っているのかもしれないけれど。出来るだけ偏らず、しなやかにありたい、と思う気持ちを道しるべにしています)
その快感を味わえるのだから、塞き止められてるのも悪くないもんだな、と。
ちまちまと自分を掘り下げ整理整頓し、頭の中の一部屋が片付いたら整理された先に現れた扉を開けてその奥の思考と感情も整理してまた奥の部屋へ…
パズル?知恵の輪?絡まりをほどく…??
この作業にしっくりくる言葉をまだ見つけられてませんが…なんともちまちました作業だなぁと我ながら失笑。
でも、趣味のアクセサリー作りにしてもミニチュア好きにしてもなんともちまちまとした手のひらにおさまる世界で。
ちまちましたことが好きなんだな、、、
毎回のことながら「こんなことブログに書くことか?」と疑問と自制がぽつりわき上がってきてますが、振り切り、アウトプット。
本のおくりもの
紙の本が、好きです。
いや、
紙の本が、大好きです。
(なんなら紙そのものが、大好きです)
いつでも好きなときに入手して読むことが出来る電子書籍のありがたさと利便性も享受しつつ、それでもやっぱり紙の本の、作り手の思いが込められ工夫が凝らされた装丁の扉を開き、頁数分の存在を、その小さくて大きな世界を手中に感じながらペラペラと読み進めて行く行為にえもいわれぬ豊かさを感じるのです。
(なんなら読まなくても、棚に置いてある本の数だけたくさんの世界が存在してるという、その事実だけで、本屋さんや図書館でうっとり)
そんな紙本好き、昨年地下鉄乗り換え時に通りかかった書店のポップアップストアで、中々自分の本が買えない子供たちに本を購入しそれをクリスマスや誕生日のプレゼントとして届けてもらえる「ブックサンタ」なるものの存在を知り、気になりながらも結局期を逃してしまい。
ずっとどこかで気になり続けていたのですが、今年も始まっていたので参加してみました。
頭は心に、体に
「ちょっと、アタシの方が上にいんだからあんたらはアタシのゆうこと聞きなさいよねっ!!」
と、大して年齢も変わらぬのにただ一、二学年上であるというだけで理由も述べず上下間系だけで偉そうに言うことだけを聞かせようと強制する学生時代の先輩のような理不尽さをもって(あくまで、イメージ)、"頭"は"心"や"体"に言うこと聞かせてきたんだな、とこないだふと思い。
それによって色んなことが出来るようになってきた側面もあるし、心も体も頭の指令には割に素直だから言うこと聞き続けるのが習慣になっていたけれど、どこかの時点で「ちょっと、もうやってらんねぇわ、なんだよあいつ。こっちの現状みもしねぇで頭で考えた自分の言うことを聞かせようとばっかりしやがってよ~!」となる値があって。
その値に差し掛かってきたのを心や体が言葉にならない電気信号でふっとキャッチしたら、
"頭"は「こういう風に自分を使ったらもっとスムーズにいけるし風通しも良くなると思うよ」という、"心"と"体"が健やかに生きていくための交通整理とアドバイザー的な黒子の役割に切り替えた方が、"私"というもの全体は上手く回っていくのだろうな、と。
頭が体や心をコントロールする、という物言いは不遜だったのだな、と思った秋の日でした。
身体の方が実は"頭が"いい、なんて話もありますしね。
言葉にならないところで何よりも早く情報をキャッチしてるらしいですよ、皮膚センサー。面白いなぁ。