船橋に残る「戦後」…都疎浜44番地の現況を写し遺した塩田跡の先、塩とか醤油で「そ〇」カツを頂く | ゆるポタで心リセット“おれ野_お散歩日記”by_✡CAMMIYA…ちょいマニアックで開運

船橋に残る「戦後」…都疎浜44番地の現況を写し遺した塩田跡の先、塩とか醤油で「そ〇」カツを頂く

 

この先に

「戦後」が残る

今回は、千葉県船橋市の南本町(みなみほんちょう)という、いかにも「お役所的な」合理主義を感じさせる地名の場所に来ていますよ♪

 

ちょうど、千葉街道(国道14号)のNTT船橋(千葉西支店)と、関東地方を中心に135店舗を運営する自転車販売店「セオサイクル」の本店がある交差点から、南へ入った場所。

 

正面に突き当たる京成電鉄系のタクシー会社を右へ迂回するように、道なりに進んで行くと、令和の今でも未だに「戦後(終戦直後)」を想起させる風景が僅かに残っているとの事。

 

8月15日で戦後77年を迎えた今、消えゆく残り少ない残像を記録しながらお散歩してきました。

 

都疎浜

千葉県船橋市の住宅街、南本町(みなみほんちょう)の一角、通称「都疎浜(とそはま)」。

※千葉県船橋市南本町44番地

 

太平洋戦争の末期、「東京都から疎開した人が暮らす浜」という意味で名付けられました。

 

要は、戦後、都内から戦災者や引揚者が多く住み着いたバラック住居が建ち並ぶエリアです。

 

既にネット上では、この「都疎浜」に関する写真はたくさん出回っているのですが・・・

 

「令和」の世になって4年経過した今でも、以前よりは数を大幅に減らしたとはいえ、まだ一部の古い住居が残存していました。

 

その大部分は廃屋で、住民が転出した後は除却されて船橋市の河川用地となり、ポケットパークとして利用されている個所が多くなってきているのが現状です。

 

まだ、住んでいる?

雑草が伸び放題の状況から判断して、恐らくこの建物には常住していないのはないかと推測されますが、玄関に綺麗なカーテンが装着された家がありました。

 

ここは、かつての「山谷澪」という船溜まりで、さらに市街地を奥に進むとJR船橋駅北口の天沼弁天池公園を水源とする「本海川」という都市河川に繋がる水路(廃運河)に面しています。

 

船橋市役所近くに建つタワーマンションとの対比の構図・・・

 

人は生まれながらに不平等なのだという理不尽な現実を、嫌というほど思い知らされる場所。

 

この1軒だけは、LPGのガスボンベとエアコン室外機、そして玄関前における植木鉢の整理整頓状況から察するに、まだ現住している人が居そうな感じがします。

 

古い建物が残っているのは「山谷澪」沿い(南本町44番地側)だけで、道を挟んだ対面は既に新しい住宅に建て替えられているようですね。

 

元々、この南本町地区は江戸時代には塩田として開発されていたのですが、1917(大正6)年9月30日の台風による津波により壊滅的被害を受け、放置されていました。

 

その廃塩田跡へ、戦後に都内から戦災者や引揚者が多く住み着いたことで、地区の南半分が「都疎浜」と呼ばれるようになったのだそうです。

 

街中は暗渠

山谷澪」と海を仕切っているのが山谷水門で、ちょうど京葉道路の北側に並行する形で設置されていました。

 

今回ご紹介した「都疎浜」のバラック街(千葉県船橋市南本町44番地)は、千葉街道と京葉道路の間、双方の道路に垂直交差する「山谷澪」の右岸に沿って展開している形になります。

 

上掲地図で言うと、ちょうど左下部分のあたり・・・

□地理院地図Vector

 

前述した通り、元の船溜まり(運河)跡の水路ですが、千葉街道の手前まで来ると上部に蓋がされて暗渠になってしまいます。

 

さらに上流(船橋市の中心市街地・JR船橋駅方面)へ暗渠のまま北上!

 

途中、■本ブログ内の別記事にてご紹介する三田浜食堂の前も、道幅の半分は「山谷澪」から続く暗渠のようですね。

 

本海川

三田浜食堂の西側一帯は、かつて「海神新地」と呼ばれた遊廓の存在した街(赤線地帯)として知られていますが・・・

 

元々は「三田浜」と呼ばれていた地域で、漁村だった船橋の中でも塩作りが盛んで塩田が広がっていたのだそうですよ。

 

船橋市河川一覧表によると、他の河川水系にも属さない東京湾へ直流する「山谷澪」の正式名称は、上述の通り延長362mの「本海川」で、“準用”以下の普通河川扱い。

 

さらに、海を背にして千葉街道手前の京成タクシーより上流の、JR船橋駅北口を越えて水源地「天沼弁天池公園」までの暗渠は現在、単なる都市下水路(雨水排水路)扱いのようですね。

 

しかしながら・・・

元々の「本海川」は山谷水門から現在の「天沼弁天池公園」までの事を言ったのだそうです。

□外部リンク参照

 

なるほど・・・西向地蔵の前(船橋宿の内と外を区切る境界)には、この「本海川」が存在したという訳ですね。

■本ブログ内関連記事参照

 

塩田跡の碑

船橋市役所の西側にある小さな公園の入口には、明治初期から昭和4年までこの地が26万㎡の規模を誇る「三田浜塩田」であったことを示す碑が設置されています。

※千葉県船橋市湊町2丁目8(湊町2丁目公園)

 

「三田」という名は、ここに塩田を開いた子爵の屋敷所在地(現在の東京都港区三田)に由来しているのだそうです。

 

昭和4年に政府による塩田地整理の対象となり、三田浜塩田は廃止されました。

 

塩田の跡地には「三田浜楽園」という遊園地ができて、動物園・野球場・プール・割烹温泉旅館などが造られ,て東京近郊の観光地として賑わいました。

 

何と、約1,800坪の海水プールが存在したらしいですよ!

 

その頃、文豪川端康成がよく滞在して執筆活動をしており、小説「童謡」には三田浜楽園が「静かな割烹旅館」として登場しています。

※川端康成の逗留(とうりゅう)は1935(昭和10)年頃だそうです

 

その後、遊園地は無くなり割烹旅館「三田浜楽園」として営業していましたが、2006(平成18)年に廃業し、現在は高層マンションになっています。

 

その北側隣接地には、康成と同時期に太宰治が逗留した宿である「割烹旅館 玉川」がありましたが、こちらも2020(令和2)年に廃業し、跡地にはやはりマンションが建設されてしまいました。

※「割烹旅館 玉川」は、1921(大正10)年に「三田浜塩田」の2番目の所有者の子息が創業

 

いかがでしたでしょうか?

今回は、戦後77年の終戦記念日に因んで、千葉県船橋市南本町の京成タクシー本社から、山谷水門に至る「都疎浜」における、今も色濃く残る終戦直後の風景をご紹介いたしました。

 

元々この場所は塩田として利用されていた土地であることを理解した後は、船橋郵便局の西側にある「塩」または「醤油」で食べることを勧めるトンカツ屋さんでお食事はいかがでしょうか?

 

千葉県船橋市南本町8-25にある「そ〇(そまる)」というカウンター8席の小さなお店ですが、奥には4人くらい入れる座敷(予約席)があるようです。

※日祝定休、さらに水曜日は夜のみ営業なので要注意

 

まるで粉雪のようにサラサラしている特製「粉塩」は、塩辛すぎずマイルド感ある柔らかい味。

 

但し、店イチバンの人気メニューである、熱々の中身がふんわりと蕩けるクリームチーズチキンカツ(980円)は、醤油で食べるのがオススメだと、明るく気さくな店主が教えてくれました。

※もちろん、ソースの用意もあります

 

オーダー後に揚げ始めるので、先客無しの状況でも提供まで10分くらい掛かるけど、こんなに後味サッパリ、かつ柔らかく肉汁滴る美味しいカツが食えるのなら、我慢して待ちましょう!

 

皆さんも是非とも、「塩」で結びついた歴史とお食事で知識もお腹も満たされる船橋市の南本町界隈を、マッタリお散歩してみてはいかがでしょうか?