陣屋町にマンションは、すべてがNGか? | ゆるポタで心リセット“おれ野_お散歩日記”by_✡CAMMIYA…ちょいマニアックで開運

陣屋町にマンションは、すべてがNGか?

武蔵小杉駅(むさしこすぎえき)

神奈川県川崎市中原区小杉町三丁目および新丸子東三丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)南武線(川崎起点7.5km地点)・品鶴線=横須賀線・湘南新宿ライン(品川起点10.0km地点)、2017年乗降人員259,274人/日の駅。

および東京急行電鉄(東急東横線渋谷起点10.9km地点・東急目黒線目黒起点9.1km地点)、2017年乗降人員225,463人/日の駅。

(JR北口にて本ブログ管理者2018.11.24撮影)

小杉陣屋町(こすぎじんやちょう)

かつて徳川家康が江戸入城の際に利用した中原街道の要所にあり宿場町として栄え、家康が御殿を設け鷹狩を楽しんだり用水路開削のために陣屋を設けるなどした、由緒正しき歴史を刻む町。

(川崎市中原区小杉陣屋町1丁目にて本ブログ管理者2018.11.24撮影)

安藤家長屋門

敷地の一部は駐車場になってしまっているが、

旧名主家の長屋門が現存している。

末裔が現住しているこの家には、

貴重な歴史資料が

今でも多く残されているのだそうだ。。。

(川崎市中原区小杉陣屋町1-13-3/本ブログ管理者2018.11.24撮影)

推定建築年代は幕末頃?

中央部に4.2m幅の門扉を1.3m正面側後退させて設け、その両端を4.5m×3.6mの西室と、4.5m×5.4mの東室で挟み込む構造になっている。

川崎市の重要歴史記念物に指定された。

(川崎市中原区小杉陣屋町1-13-3/本ブログ管理者2018.11.24撮影)

旧原家母屋跡地

大正2年建築の総ケヤキ造り母屋が存在したが、

末裔企業が地主となり、三井不動産レジデンシャルへ委託の再開発事業に伴うマンション建設により、陣屋門のみ残して母屋は川崎市立日本民家園に移築された。

(川崎市中原区小杉陣屋町1-15-18/本ブログ管理者2018.11.24撮影)

中原街道に面している場所

中原街道は江戸と平塚を直線で結ぶ表街道でその歴史は東海道よりも古く、再掲ではあるが、かつて徳川家康が江戸入城の際に利用したと言われている。

同時に、沿線の物資や農産物の輸送に欠かせない街道でもあった。

小杉地区はその大事な中継地であり宿場町として栄える一方、御殿が設けられ家康が鷹狩りを楽しんだり、用水路(稲毛・川崎二ヶ領用水路)開削のための陣屋が設けられた、由緒ある街でもある。

(川崎市中原区小杉陣屋町1-15-18/本ブログ管理者2018.11.24撮影)

マンションとしては「低層建築」の部類に属す

中原街道の要所にあり、江戸時代より街の発展に寄与してきた約400年の歴史を持つ原家旧屋敷跡を再開発。

約900㎡の緑豊かな中庭を囲うように賃貸(72戸)・分譲(66戸)2つの(マンションとしては)「低層」の住宅(5階建て×2棟)を配置し、「精神の継承を」というコンセプトのもと、門やお社、樹齢100年以上の既存樹木など貴重な遺産を数多く残し、旧母屋(日本家屋)をモチーフに素材を選びデザインしたのだそうだ。

言い換えれば、

江戸時代からの歴史がある屋敷を再開発しての140戸弱の分譲・賃貸ミックス型のマンションの事例。陣屋門、社、樹木、基礎石等を再利用し、かつての歴史を継承しつつ新たな住環境をつくり出した好事例であると言える。

□外部リンク参照

(本ブログ管理者撮影写真+三井不動産のHP引用写真)

陣屋町にマンションは、すべてがNGか?

近所には「高層マンション反対!」の幟旗も散見する。

確かに、こういった古い歴史のある町家が近代的なマンションに建て替わると、昔ながらの街並み景観の良さは失われる。

しかし、不動産オーナーも事業継続の為には、ある程度の経済性を追求する必要があり、例えば高額な相続税の納付が必要になった場合など、創業地での事業継続が危ぶまれる場合もありうるだろう。

街は博物館ではない。

この街で生活し、生き延びる為に皆必死なのだ。

だから、俺はすべてがNGとは思わない。

むしろ、この原家の努力は賞賛に値するものだ。

要は、極端に経済的合理性を追求し過ぎない

創意工夫と、行政の法的支援が必要なだけである。

(川崎市中原区小杉陣屋町1-15-18/本ブログ管理者2018.11.24撮影)

旧家の屋号と御神木が残る

もともと原家は、天明4(1784)年に肥料を売る店を開店後、米問屋、味噌屋、醤油屋、油問屋などを手広く手がけ、その後銀行業や政界にも進出し地域の発展を牽引してきた。

また、石橋を方々にかけたことから「石橋本家」という屋号でも呼ばれていたようだ。

かつて昭和の一時期には「陣屋荘」という料亭を営み、祝い事などの会席の場としても親しまれ、不動産マネジメント業に転換した現在は、12代目の原正人氏が当主を務めている。

およそ400年もの間、誰の手にも渡ることのなかった2000坪余りの敷地には、門が構え、代々原家に愛でられてきた屋敷林や敷石などが残存し、街の人々の心のよりどころとなったお社が鎮座していた。
この連綿と続く時の流れを止めないように、自然や遺産を残し、この土地に積層した人々の面影を、グランドデザインや建築コンセプトへと昇華させたのが、「GATE SQUARE 小杉陣屋町」の開発コンセプトなのだそうだ。

マンション開発と街並み景観を両立させた成功実例を見せてくれた原家と三井不動産、そして工事を担当した竹中工務店に感謝したい。

□外部リンク参照

(川崎市中原区小杉陣屋町1-15-18/本ブログ管理者2018.11.24撮影)

小杉陣屋跡

「陣屋」とは、江戸時代において各藩の藩庁が置かれた屋敷か、または幕府直轄領の代官の住居・役所のことを指す。

■本ブログ内関連記事参照

小泉次大夫は旗本代官だったので、次大夫の陣屋は後者のカテゴリーに属すが、この小杉陣屋の場合は、単なるお屋敷というだけではなく、どちらかというと公共工事の現地事務所のような位置づけだったようだ。

(川崎市中原区小杉陣屋町2-10-55にて本ブログ管理者2018.11.24撮影)

今は小さな祠が残るのみ

小杉御殿の建設などが行われた徳川家康の治世当初において、多摩川周辺の土地は非常に生産性の低い状態だったようだ。

水辺でありながら水利が悪く、草地や荒地ばかりの中に小さい集落が点在しているのみだったこの地を含め、米の増産に取り組んでいた家康は江戸近郊の各地で新田開発を計画するが、それにあたって多摩川からの農業用用水路の敷設を進言し、用水奉行を任されたのが小泉次大夫だった。

次大夫によって川崎市内に敷設されたのが二ヶ領用水であり、その拠点となったのがこの小杉陣屋だったとされている。

(川崎市中原区小杉陣屋町2-10-55にて本ブログ管理者2018.11.24撮影)

新興住宅街の中に埋没する陣屋跡

小泉次大夫は、1597年(慶長2年)より、多摩川両岸の用水路建設に着手したが、完成までに14年を要する難工事となったらしい。

陣屋は川崎側の小杉陣屋だけでなく、江戸側の狛江にも設けられ、次大夫が各地の現場で指揮を取って何とか完成にこぎつけたようだ。

(川崎市中原区小杉陣屋町2-10-55にて本ブログ管理者2018.11.24撮影)