縄文時代の貝塚公園に建っていた…江戸時代の代官屋敷☆彡 | ゆるポタで心リセット“おれ野_お散歩日記”by_✡CAMMIYA…ちょいマニアックで開運

縄文時代の貝塚公園に建っていた…江戸時代の代官屋敷☆彡

幕張の旧千葉街道(旧道)を行く、、、

習志野市から千葉市西部にかけての東京湾沿い一帯は、下総台地が海岸沿いまで迫って海食崖を形成し、江戸時代には台地を刻む小河川の河谷ごとに村落が形成されていた。

元々は下総国千葉郡の西側一帯を指して幕張、もしくは馬加(まくわり=旧かな遣い表記「まくはり」)と言ったようである

また、大正期に編纂された「千葉郡幕張町誌」(家鴨文庫所蔵)によれば、中世では須賀(または素加)すがと読ばれていたそうだ。

江戸時代には江戸町奉行の与力給地が置かれ、その関係で享保20年(1735年)に青木昆陽がサツマイモの試作を行った場所として有名である。

また、浜田川と東側の花見川の両河川の河口の間は砂丘が広がり、かつてはここが良質の人参産地となっており、「幕張人参」のブランドで知られた。

(千葉市花見川区幕張町にて本ブログ管理者2018.9.17撮影+1:20000「検見川」明治36年)

馬加代官屋敷(旧大須賀家住宅)跡

馬加村は幕府直轄地として北町奉行与力給地にあり、

大須賀家は世襲郷代官として、

俗称「北の代官所」と呼ばれていたという。

江戸町奉行所の与力給地は主として下総国の葛飾郡、千葉郡、埴生郡、香取郡、上総国の山辺郡などにまとめて給地が与えられていおり、一人200石ずつ、50騎で合計1万石だった。

与力給地の管理のため村名主の中から給地役(郷代官)を任命し、古参の与力から南北2人づつを給地世話番として、旗本が給地を支配すると同様な「領主」としての事務を担当させた

これらの給地からの年貢米が南北与力50人に配分された。

「禄高1万石」はいわゆる草高で、その領地の総生産高である。

通常、領主が4割、農民が6割という配分になるので、

与力の実質収入は4000石となる。

馬加代官屋敷(旧大須賀家住宅)は千葉市花見川区幕張町3丁目1096(現在の「3丁目公園」)にあり、明治15年5月の陸軍大演習の際に明治天皇の御休憩所に使用されたこともあったが、昭和43年に千葉市に寄贈され、

直線距離で11km離れた現在の加曾利貝塚公園内に移築された。

(幕張町3丁目公園にて本ブログ管理者2018.9.17撮影)

では、加曽利貝塚公園に行ってみよう!

正式には「加曽利貝塚縄文遺跡公園」という

千葉市が1964年(昭和39年)頃に

5ヘクタール余りの用地を買収して整備した公園。

加曽利貝塚(かそりかいづか)は、千葉県千葉市若葉区桜木8丁目にある縄文時代の貝塚で、世界でも最大規模の貝塚であり、学史上でも著名な標式遺跡としても知られる。

1971年(昭和46年)に北貝塚が、1977年(昭和52年)に南貝塚が国の史跡に指定され、2017年(平成29年)に国の特別史跡に指定された。

元々の「加曽利貝塚」は、直径約130メートルの北貝塚と、長径約170メートルの南貝塚が連結し、全体としては8の字形となる特異な形状をしており、面積は約13.4ヘクタールで世界でも最大規模の貝塚なのだそうだ。

(加曽利貝塚公園にて本ブログ管理者2018.9.16撮影)

あったゾ!

旧大須賀家住宅

「縄文時代」を展示する公園の一番奥に

移築された「江戸時代」が建っていた。

元々は

寛保~寛延年間(1741~1750)の建造と思われ、

一部に近年の改造の跡が見られる。

(加曽利貝塚公園にて本ブログ管理者2018.9.16撮影)

畳の部屋は入室禁止、土間から撮影

奥の間は比較的よく旧態を残し、武家風の書院造で、

床の間や違い棚などに、その特色が見られる。

(加曽利貝塚公園にて本ブログ管理者2018.9.16撮影)

幕張にあった頃の様子と比較

ちょうど街道側から見てこの角度で佇んでいたはず。

屋根は鋼板に葺き替えられてしまっているが、

規模が大きめの屋敷が建ち並ぶ

幕張の旧街道沿いにあって、

出桁(だしげた)にすることで屋根に重厚感を増し、

他の家との格式の違いを表現していたようだ。

(加曽利貝塚公園にて本ブログ管理者2018.9.16撮影)

せっかく来たので、、、

公園内「本来の」展示物である縄文時代モノも見よう!

大須賀家住宅の近くにあるのが縄文時代の船着場跡。

湾曲する台地の先端部分が

僅かに岸壁のような形状になっていることがわかる。

(加曽利貝塚公園にて本ブログ管理者2018.9.16撮影)

新旧地形図比較

今は直線的に護岸改修された坂月川だが、

昔はもっと屈曲していたものと推定される。

加曽利貝塚遺跡は、千葉市内を東西に流れる都川の支流である坂月川を北に2キロメートルほど遡った西側(右岸)の東西約500メートル、南北約800メートルの舌状台地上にあり、その台地は西側が平坦部で、東側に向かって緩やかに傾斜している。

貝塚を含む地層は台地の東側縁辺に東西300メートル、

南北400メートルにわたって分布している。

(加曽利貝塚公園にて本ブログ管理者2018.9.16撮影+1:20000「千葉」明治36年)

千葉は貝塚の町(?)

千葉の他には宮城県の松島湾(仙台周辺)や、

愛知・三重の伊勢湾岸(名古屋周辺)といった

縄文時代に大規模な干潟が形成された地域に

貝塚が多く集中して見つかっているとのこと。

(加曽利貝塚公園にて本ブログ管理者2018.9.16撮影)