「中曽根城」は、何処に存在した城なのか? | ゆるポタで心リセット“おれ野_お散歩日記”by_✡CAMMIYA…ちょいマニアックで開運

「中曽根城」は、何処に存在した城なのか?

中曽根城址

この城が築かれた室町時代の足立区南部は荒川に続く低湿地で、城址は周囲より一段高くなった微高地になっていたと伝えられているが、現在は地形変化のない市街地になっていて城址の面影はまったく残っていない。

平成8年の発掘調査では幅7m程の濠跡が確認されている。

城主の千葉氏は、武蔵国に移ってから大田道潅の下で各地を転戦し、現在の東京都板橋区や足立区、および埼玉県さいたま市の浦和付近を中心とする地域を領有し、さらに小田原北条氏の配下になると父祖の念願の地であった下総(現・千葉県)にまで領国を広げていたようだ。

そして領国内には、本拠である赤塚城(現・板橋区)の他にも、一族の武将の守る支城がいくつか築かれ、中曽根城もその内の1つだったと推定される。

(東京都足立区本木2丁目5/本ブログ管理者2017.11.3撮影)

現地説明板に書かれていた案内

「中曽根城は、

室町時代の寛正年間(1460-1466)千葉次郎勝胤公によって築城された。

周囲六町四方(36ヘクタール)で、その構えに堀や土居をめぐらしていたと伝承され、今も小字に、出戸、小屋の内出などの名が残っている…」

(東京都足立区本木2丁目5/本ブログ管理者2017.11.3撮影)

「永遠なる少女」像

今日も

中曽根城址と中曽根神社境内を見守るように立っている。

中曽根神社は昭和7年、妙見社と輿野の雷社と合わせて中曽根神社とし、当地の氏神として祀られるようになったのだそうだ。

中曽根神社は、かつて周辺より一段高い地形で城址の名残りを見せていたともいわれるが、それを含め遺構らしきものは現在何も無い。

(東京都足立区本木2丁目5/本ブログ管理者2017.11.3撮影)

中曽根神社周辺の様子

象牙屋さん等、町工場や職人の多い街っぽい感じ。

(東京都足立区本木2丁目5/本ブログ管理者2017.11.3撮影)

本木らしい風景と言えば、、、

やはり紙関係の事業所と、狭い路地。

(東京都足立区本木にて本ブログ管理者2017.11.3撮影)

本木氷川神社

今時珍しくなった公衆電話ボックスのある風景。

(東京都足立区本木西町15/本ブログ管理者2017.11.3撮影)

本木中央通り

この道は「本木新道」と呼ばれ、地区の中央部を南北に縦断し、西新井大師と北千住を結ぶ東武の路線バスが走る幹線道路になっている。

(東京都足立区本木南町にて本ブログ管理者2017.11.3撮影)

ファミマのイートインで、ひと休み♪

目の前を「北01」系統のバスが、

休日でも両方向とも昼間10分間隔で通過して行く。

本木地区国勢調査データ(人口、面積→人口密度)

・本木1丁目…1,883人、0.15024k㎡→12,533人/k㎡

・本木2丁目…784人、0.14467k㎡→5,419人/k㎡

・本木西町…1,103人、0.11159k㎡→9,884人/k㎡

・本木東町…1,669人、0.10332k㎡→16,154人/k㎡

・本木南町…1,788人、0.12263k㎡→14,700人/k㎡

  ↓

本木地区合計…7,227人、0.63249k㎡→11,426人/k㎡

資料出所/□外部リンク「不動産くん」参照

なるほど、、、

これだけ人口密度があれば、路線バスが10分毎に来る訳だ。

(ファミリーマート本木南町店/本ブログ管理者2017.11.3撮影)

銭湯と細い路地が残る街「本木」

かつての本木地区の範囲は広く、現在の本木北町・本木南町・本木西町・本木東町のほか、関原・扇の大半や小台・千住桜木の一部を含んでいたのだそうだ。

(東京都足立区本木にて本ブログ管理者2017.11.3撮影)