昔々あるところに、風呂があった。今でもあるではないか。というのは揚げ足取りもいいところだ。

広さ41625平方メートル、高さ38.5メートル、1500人以上を収容でき、石炭を燃料に湯を供給するハイポカウストなるシステムを備えている。

西暦216年、それは完成し今なお地球上に存在するのである。


カラカラ浴場。
全てはそこから始まる。


遡ること、時は古代ローマ帝国セウェルス朝。ルキウス・セプティミウス・バッシアヌス帝の治世下である。
父セプティミウス・セウェルスはその名の通りセウェルス朝初代君主、動乱の時代にあって内乱を制した偉大な覇者であり、その息子である彼はいわゆる二代目お坊っちゃんなのだ。

彼は後に立ちションの最中非業の死を遂げるが、それはまだ随分と先の話である。

永い眠りだった。
猫のように永い眠りだった。だが吾輩は猫ではない。
いったいどれくらい眠っただろうか。
脳味噌はとうとうと耳から流れだし少し離れたところに淀んだ沼のように微睡んでいる。
痛みは既に感覚から分離し、建て売り住宅のように傍らに佇んでいる。
怠慢を極めた心臓が忘れた頃に脈打つ。冬眠中の蜥蜴の心臓でももう少しはましに機能しているのではないだろうか。


夜の女王のアリア。
「昼下がりの夜の女王か。もう少しいい選曲があったんじゃないのかな。」

音が段々近づいてきて鮮明になって行く過程で現実が幻想を打ち破る。

美しいはずのソプラノは、平均的、男性的なひび割れた悲痛な音色に変換される。小鳥のような囀ずりをくびられた小鳥たちの断末魔が上書きしていく。

「これを僕にどうしろって言うんだろう。」不条理な思いを抱きつつも、これはルールであるから、やめておくと言うわけにも行かないのである。

「我々は自由を得るために創ったルールに自由を縛られている。」とニーチェあたりが言わなかっただろうか?

しかし、それなしには彼は存在できないのであり、彼はまた無条件に存在していたいのである。

ルールとしがらみにはそう言う意味でたいした違いはなく、どちらも面倒臭いという理由だけでやめることが出来ない場合がままあるのだ。

彼は哀しい健三に心を重ねつつ丁寧に響を重ねていく。
私は今太刀魚を食べています。いい太刀魚です。ほんとうに。

丁寧に同じ大きさの長方形に切り分けられ、間には酢生姜が挟まりまして、皮は焼け縮れて香ばしく、隣には茸の胡麻和えなんかが盛られ、沢庵が二枚添えられてあるので文句のつけようもありません。

それにしても小骨の一本も見当たりません。もしこれが太刀魚だと言われなければ、私はこれが太刀魚だと気づくことはなかったでしょう。「やっぱりシーラカンスでした。」と言われればそれは直ぐにもシーラカンスに変わってしまうような、そんな危うい存在です。

命題があります。
「人前に出すのであれば完璧でなければならない。」

しかし完璧というものは無機質であり、時に不気味なまでの神経質さを伴い、人智を超えた違和感を生むものです。異常に早く、そして長いであろうこの梅雨のように。


もしこの先、私が世界に露出する時が来たとして、
世界中の人が私を認識したとして、
几帳面に規格化された長方形をお茶の間で眺めるであろう彼らの中に、
骨抜きにされた私を「私」であると識別することができる人間が何人いるでしょうか?

そのような人達の中で「私」は存在を許されない。どんな意味においても。生きていても、化石と呼ばれる魚のように。