私は今太刀魚を食べています。いい太刀魚です。ほんとうに。

丁寧に同じ大きさの長方形に切り分けられ、間には酢生姜が挟まりまして、皮は焼け縮れて香ばしく、隣には茸の胡麻和えなんかが盛られ、沢庵が二枚添えられてあるので文句のつけようもありません。

それにしても小骨の一本も見当たりません。もしこれが太刀魚だと言われなければ、私はこれが太刀魚だと気づくことはなかったでしょう。「やっぱりシーラカンスでした。」と言われればそれは直ぐにもシーラカンスに変わってしまうような、そんな危うい存在です。

命題があります。
「人前に出すのであれば完璧でなければならない。」

しかし完璧というものは無機質であり、時に不気味なまでの神経質さを伴い、人智を超えた違和感を生むものです。異常に早く、そして長いであろうこの梅雨のように。


もしこの先、私が世界に露出する時が来たとして、
世界中の人が私を認識したとして、
几帳面に規格化された長方形をお茶の間で眺めるであろう彼らの中に、
骨抜きにされた私を「私」であると識別することができる人間が何人いるでしょうか?

そのような人達の中で「私」は存在を許されない。どんな意味においても。生きていても、化石と呼ばれる魚のように。