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流れ雲のブログ

季節は巡り、花が咲き花が舞い、花が散り花が逝く、
きっといつか、風が吹いて、夢を運んでくる予感…
繰り返しと、積み重ねの、過ぎ去る日々に、
小さな夢と、少しの刺激で、今を楽しく、これからも楽しく…

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
明日という日はミステリー




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むかしむかし、ある村に、とても意地悪で有名な
お金持ちの親方がいました。

ある日の事、親方は家の前に大きな看板を出しました。
三日の間、(のさん→難儀)と言わなければ、
一日につき一両ずつ出す。ただし言えば、鼻を切る

すると一両につられて、一人の男が親方を訪ねました。
親方に言われた通り昼飯も食べずに山で竹掘りをして、
やっと掘った竹をかついで帰ると親方が、
「もう一本、掘ってこい。
昼飯と夕飯は、その後で一緒に食わせてやる」
と、言ったのです。

これを聞いた男が思わず、「のさん」と、
言ってしまったので、男は親方に鼻を切られて
しまいました。

しばらくすると、また一人の男が親方を訪ねてきました。
その男は、一日目は何とか無事に過ごしたのですが、
二日目は夕飯も食べさせてもらえなかったので、思わず、
「のさん」と、言ってしまい、鼻を切られたのです。

またしばらくして、今度は利口そうな男が親方を
訪ねてきました。
「看板を見てやって来た。
『のさん』と言わねば一両をくれるとあるが、そうではなく、
わしは親方と勝負がしたい」

「ほう、勝負とは?」
「わしが『のさん』と言えば、鼻ではなく首を切られてもよい。
だが親方が『のさん』と言えば、親方の鼻を切らせてもらう」

それを聞いた親方は、笑いながら、
「いいだろう。わしは大金持ちだ。何不自由なく暮らしておる。
このわしが『のさん』と言うはずがない」と、言いました。

さて、親方はさっそく男に仕事を言いつけましたが、
男は自分で弁当を持ってきていたので、腹を空かさずに
仕事を続けました。

二日目に、親方が言いました。
「瓦(かわら)ふきが来るから、その瓦ふきのする通りにしろ」
やがて瓦ふきが来て、古い小屋の屋根瓦をはがすのを見て、
男は母屋(おもや)の屋根瓦をはがし始めました。

そこに親方がやって来て、屋根がメチャクチャに
なっているのを見ると、
「ああっ、こっちのは、はがさんでもええんじゃ。
のさんのことだ」と、言ってしまったのです。

これを聞いた男は、いきなり親方の頭を押さえつけると、
「約束通り、親方の鼻を切らせてもらうぞ!」と、
言いました。

親方は、まっ青になりながら、「まっ、待て、
わしが悪かった。財産の半分をくれてやるから、
許してくれ」と、泣いて謝りました。

こうして親方から財産の半分をもらった男は、
先に鼻を切られた二人にも財産を分けてやると、
どこかへ旅立っていきました。

おしまい 




鬼が餅つきゃ、閻魔が捏ねる、
   そばで 地蔵が食べたがる




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美少年による売春が流行。【おもな客は僧侶】
江戸時代の男色の実態はハードだった

若衆歌舞伎は禁じられたわけですが、歌舞伎役者、
特に女形(おやま)を目指す少年による売春は
変わらず行われていました。

男性に抱かれることで女性らしさを学ぶことができる、
として売春は女形修行の一環と考えられていたらしい。

舞台に出る前の修行中の少年役者は
「陰の間の役者」と呼ばれており、これがやがて
売春を商売にする少年を指す「陰間(読み:かげま)」
という言葉になっていったそう。

まとめると・・・・ 
陰間(読み:かげま)とは売春を専業にする美少年
陰子(読み:かげご)・色子(読み:いろご)とは
 女形修行中で売春もする美少年
舞台子(読み:ぶたいご)とは
 舞台に立つようになったあとも売春をする女形
飛子(読み:とびご)とは
 地方巡業にもついていき興行先で売春する
 女形修行中の美少年、もしくは、どこにも所属せず
 出張売春をする美少年

女形修行中の少年や女形の役者たちは、
芝居が終わったあとに贔屓客などに請われれば
料理茶屋などの座敷へ出向き春をひさぎました。

そうしたわけもあり、役者同士の男色のウワサも
色々と残っています。

特に世間に知られたのが、人気役者の三代目
・坂東三津五郎と女形の五代目・瀬川菊之丞。
彼らが世間の注目を集めたのは単に男色関係に
あった(らしい)からではなく、菊之丞が三津五郎の
妻に手を出し駆け落ちをした!なんて噂が
あったからです。

さらに2人とも病死したのですがその時期が
ほぼ同じという偶然。

江戸時代、人気役者が死亡すると訃報と
追悼のために「死絵(しにえ)」というものが
つくられたのですが、三津五郎と菊之丞は生前の
密な関係もあり2人セットで描かれたものが
たくさんあります。



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また、江戸時代の大ヒット小説『東海道中膝栗毛』の
主人公、弥次さん喜多さんコンビをご存知でしょうか?
『東海道中膝栗毛』は伊勢を目指し江戸を出発した
2人のドタバタ珍道中を描いたものですが、
じつは弥次さん喜多さんが過去に男色関係に
あったのです。

弥次さんも喜多さんも作中、江戸の長屋に
住んでますが、彼らは江戸の生まれではなく、
弥次さんはもともと駿河の裕福な家のお坊ちゃん、
喜多さんは弥次さんご贔屓の陰間だったのです。

クドカン(宮藤 官九郎)により映画化もされた
しりあがり寿の漫画『真夜中の弥次さん喜多さん』では
弥次さんと喜多さんがヤク中のカップルとして
描かれていましたが、あれは原作に沿った設定
だったんですね〜。

江戸時代に陰間と呼ばれる男娼が大人気だった、
というのはわりとよく知られていますが、
江戸時代265年間のうち陰間が流行したのは
ほんの短い期間だけ、というのはちょっと意外なんじゃ
ないでしょうか。

上方で絢爛豪華な元禄文化が花開いた元禄時代、
その上方で陰間茶屋が大流行しました。
そして八代将軍・徳川吉宗の治世である享保の頃、
陰間茶屋ブームは江戸にも伝わり、
宝暦〜天明(1751〜89年)にかけて隆盛期を
迎えたのです。

どれくらいの陰間茶屋が江戸市中にあったのか、
当時の男色ガイドブックともいうべき
『男色細見三之朝』(1768年/明和5年)を参考にしますと
こんな感じ。
( )はそこにいた陰間の人数です。

芳町(正式名称:堀江六軒町) 13軒(67人)
堺町・葺屋町 14軒(43人)
湯島天神門前町 10軒(42人)
芝神明門前 7軒(26人)
麹町天神(平河天神)門前 3軒(19人)
英町(神田花房町) 3軒(10人)
木挽町 3軒(7人)
八丁堀代地 2軒(11人)

江戸の全8カ所に225人もの陰間がいたらしい
(ちなみに当時の江戸の人口は推定100万人と
いわれている)。

芳町や境町、葺屋町など現在の東京都中央区
日本橋周辺に陰間茶屋がたくさんあったのは、
近くに芝居小屋があったからです。
芝居と男色は切っても切れない関係なわけです。

これだけ陰間がいたということは裏返せばそれだけ
需要があったということ。
「江戸には同性愛者がいっぱいいたの?」と思うかも
しれませんが、それはちょっと違うのです。

当時、男色というのは同性愛者に限ったものではなく、
「趣味人のたしなみ」とも考えられていたといいます。
色道を探求するならば、女色と男色どちらも味わうべし
・・・といった考えがあり、粋人や文化人らも陰間を
買いに行きました。

西洋では男色はアンモラルな行為と捉えられて
いましたが、日本ではそうした認識はなかったようで、
みなさんわりとオープンに陰間茶屋へ通ったようです。

陰間茶屋を取り締まった幕府にしても理由はあくまで
「風俗が乱れる」というもので男色そのものを
タブー視はしなかったというのがとてもおもしろいですね。

余談ですが男色案内書『男色細見』の著者は
江戸時代を代表する鬼才・平賀源内その人です。
平賀源内は当時から男色家として有名で、源内の
ペンネーム「風来山人」は男色の隠語にまで
なっていました。

陰間茶屋のメッカとして芳町は有名だったので、
こんな川柳も残っています。
「よし町は 狭いところで 繁盛し」

まあ、「芳町は男色=肛門○○(狭いところ)で
繁盛している」という意味です。
また門前町に陰間茶屋が多くあったのは、
陰間を買う客のメインが僧侶だったからに
ほかなりません。



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江戸の各地にあった陰間茶屋ですが、風俗の
乱れを徹底的に嫌った「寛政の改革」、
さらに「天保の改革」の打撃を受け江戸時代
後期にはすっかりその数を減らしました。

歌川広重や葛飾北斎が活躍し、江戸の
庶民文化が最も花開いた「文化文政期」には
陰間茶屋は江戸市中3カ所だけ
(芳町・湯島天神門前・芝神明前)
になっていたそうです。 


・・・おしまい




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