やすらぎの森には限りなく美しい老人の…(Jan. 25, 2022) | 微睡のブログ〜八ヶ岳南麓から〜

微睡のブログ〜八ヶ岳南麓から〜

八ヶ岳南麓、北杜市長坂町小荒間に在住。ときどき仕事をしながら、読書、音楽鑑賞、カメラ撮影、オートバイツーリングなどの趣味を楽しんでいます。

 午前10時の気温は零度。

 

 午前中は読書。『井伏鱒二自選全集 第1巻』を読了する。全集は廃校になった小学校(現在八ヶ岳文化村)に作った私設図書館にあるので、第2巻を買物で外出するときに取ってこよう。

 

 午後買い物に行く。今日は春を先取りしたような陽気である。春の光が雲や山の雪に乱反射していた。まぶしい。韮崎へと七里岩ラインを走っているときに梅林を見ると、枝に小さな、まだ固い蕾が見えたように思えた。食料など大量に買い込んで、帰途、文化村のわが図書館に『井伏鱒二自選全集 第1巻』を返して第2巻を持ち帰る。

 

 

 最近は車を運転しながら圓生を聴いている。若いころ、月一回開かれる新宿紀伊國屋ホールの寄席に10年間ほど欠かさず通い、圓生、小さん、正蔵(彦六)の落語は毎月観て名人芸を堪能した。あそこまでの名人になると、三者三様、それぞれの芸の個性が純化していた。誰をひいきするということはなかった。しかし、圓生については、すべての所作が芸になっていると驚いたものだ。一度喉に痰がからまったようで、懐紙を取りだして痰をしたが、それさえも芸になっていた。最近とくにくり返し聴いたのが「代脈」という噺で、圓生がよいことはいうまでもないが、客席で明るい声で屈託なく笑うおばさんたちの声が良いのである。笑いは伝染するのだ。呼水になる。

 

 カナダ映画「やすらぎの森」を観る。大自然のあるところにはひっそりと森の生活をする者たちがいる。あるアメリカのネイチャーライターが書いていたが、人間にはウィルダネス(荒野、この映画の場合は大森林だ)が必要だ、なぜならばそれらこそが人間の自由を保障してくれるものだからだ。確かに、国家の権力が及ぶことのない荒野がなければ、人は国家という牢獄にいるようなものだろう。映画は邦題に「やすらぎ」という言葉が使われているように、どこか甘いところがある。観客を安易に森の生活に誘うような。しかし、それでよい。映画は美しく、ぼくらが日々の生活の中で忘れている森の生活を思い出させてくれるのだから。カナダのカトリーヌ・ドヌーブと言われていたらしい80歳の老女優の遺作になった映画だが(彼女はassisted suicide で亡くなったという)、老人のセックスが限りなく美しかった。