STONED&DETHRONED

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日々のこと綴ります。

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現代のNYサウンドの革新性と論理性、そしてなにより音楽性の豊かさについては、
今後よりいっそう語られるところとなるだろう。
そして、それがどんな背景とそれにともなう危機感に促されて現れたかについても、
折に触れ思い出されることだろう。
それは、たとえばサッチャー政権下にザ・クラッシュの登場を見ることや、
取り残されたレーガノミクスの罪としてニルヴァーナを見つめることと
同様の歴史観と、それがもたらす未来への智恵を、
われわれに届けてくれることになるはずだ。

そのとき、思い起こされるべきもうひとつのワードに、
パンクも加えておきたい。
パンクといっても、それは、
昨今流通しているグリーン・デイが象徴するような類のものでも、
あるいは、ラモーンズやピストルズが体現するようなものでもない。
それは奇しくも1980年を前後としてリリースされた
3枚のアルバムとその担い手たちのことだ。

よくいわれるように、
現在のNYサウンドにデヴィッド・バーンの影響を認めることは容易だ。
アフリカン・ビートを大胆に導入し、
イーノからブリューまでむさぼるように音楽ツールを駆使して
構築された
「リメイン・イン・ライト」のサウンドは、
アカデミックに論理付けられたフリー・スタイルを今に手渡した。
あるいは、現在のNYミュージシャンからフェイバリットにあげられることも多い
XTCのアンディ・パートリッジは、
ポップへの偏執狂ぎみなトライアルを重ねていったことでも知られる英国人だ。
スペクタクルな曲展開、奔放なミックスのバランス、そして何より、
音への執着。
アルバム「ブラック・シー」の荘厳は、破壊のニュー・ウェイヴが奇跡的に生み出した永久建築だ。
そういう意味では、スクリッティ・ポリッティのグリーン・ガートサイドも
忘れることはできないだろう。
ウェールズ出身のひとりパンクスが突如目の前に提出したアルバム
「キューピッド&サイケ」のスリリングなシンセサイザー・ワークは、
いまなおその輝度において他を圧する、ひとつの世界を形成する。

デヴィッド・バーンとアンディ・パートリッジ、そしてグリーン。
彼らは、奇しくもパンク第1世代に属しながら、
そして、いまなお異彩を放つ作品を残しながら、
その王道で語られるよりも、
特別な傍流として、その功績を記されてきた。
つまり、その共通するところは、「辺境」ということだった。
彼らは、パンクという改革運動の渦中にありながら、
さらに独自の王国を独自に築き上げた奇才たち、だったのである。

現在のNYサウンドに、彼らの痕跡を強く認めることは、
必然なのかもしれない、と思うのである。
MY BLOODY VALENTINEが創出した、
後に「シューゲイザー」と呼ばれることになる文体は、
80年代から90年代へと時代が移り変わるその過渡期に突如発明され、
そして、その短い時期に多くのフォロワーを生んだ。
以降、ギターを主体としたロックはグランジからオルタナティヴ、
あるいは復古主義とめまぐるしく変遷を遂げてきたが、
シューゲイザーと称されるそれは、
あたかも地下水脈を流れるせせらぎのように、
むしろ日の目を見ることを避けるかのような控えめさで、
オーバーグラウンドで交わされる言葉ではなくなった。

しかし、今、CD店を覗いてみると、
そこにはしっかりと「シューゲイザー」と自らを規定した
新しいバンドたちが、場所を占めているのである。
一昨年についにリスタートを切った創造主MY BLOODY VALENTINEの、
時を超えた勇姿もあってか、
ここにきて、その文体は、新しいロックの言語として見直され、
積極的に話されようとしている。

しかし、である。
ロックの常として、さまざまな文体はいつも刷新されてきた。
というか、刷新と進化がロックそのものだといっていい、
つまりは、変化はロックにとってアプリオリな条件なのである。
しかし、なぜか「シューゲイザー」たちは、
その文体をほとんど変えようとしない。
その音は、1991年の昔から2009年の今に至るまで、
ほぼその設計を変えることがないのだ。

これはいったいなぜなのか?

どんなに完成された音楽文体においても、
意識的なミュージシャンであれば、
そこに何がしかのイントネーションやアクセントを欲するだろうし、
そうでなければ、そもそも「いま/ここ」を絶対の基本とする
ロックの表現として成立しないのはずである。
けれど、彼ら「シューゲイザー」たちは、断固としてそうはしないのだ。

なぜか。
それは、その文体の「構造」そのものが、
「シューゲイザー」が表現したいことのすべてだからである。
全編を覆うノイズと、その向こうでかすかに漏れ聴こえてくるメロディ。
それは、まさしく、世界との間に建てられた壁と、
その向こうで守られる自分という構図なのである。
「シューゲイザー」にとって、世界と自分とはそういうものであり、
それ以外はないのだ。
ロックがある種のイノセンスを擁護するものだとしたら、
彼ら「シューゲイザー」たちは、その権利の主張を
闘いではなく保護と隔離に求める。
無抵抗主義という抵抗主義があの音なのだ。
そして、その構図の絶対的な固定は、必然として彼らの究極の夢となっていくだろう。
「シューゲイザー」は「シューゲイザー」であることが、
すべてなのである。

さて、そんな「シューゲイザー」の最新の(?)バンドとして登場したのが、
このTHE PAIN OF BEING PURE AT HEARTである。
なにしろ、BEING PURE AT HEARTであることのPAIN、なのだ。
そういう意味では、「シューゲイザー」というものが何であるのか、
そのことを自ら明確に対象化した初めての「シューゲイザー」と呼べるだろう。
その批評性は新しいと思う。
その意味で、優れた2009年のロック・バンドである。


まちがいなく、2009年の夏フェスのひとつのエポックを形作るにちがいない、
ANIMAL COLLECTIVE。
そのステージが提案する試行の数々は、
この先数年は語られることになる、
音楽と世界を繋ぐコードのいくつかをわれわれに示唆するものになるだろう。
それは、これまで20年ほどの音楽が、
おもに世界の負の部分を解析・反復することに腐心していたことから転じて、
なにがしか幸せなものを、
もちろんそれはこれまで押し付けられてきた幸福とは異なるものとして、
実際に獲得されることの予感をわれわれに告げるものになるはずだ。
そういう意味で、フェス、特に苗場の空気は格別に似合いそうである。

さて、この最新作にも濃厚に散布されているビーチ・ボーイズ・エスク、
いや、ブライアン・ウイルソン的なるものというのは何なのだろうか。
アメリカン・インディーの底流に、
それこそソニック・ユースの昔から綿々と流れてきたこのせせらぎが
語るものとは何なのだろう。
それは、かつてひとりの青年によって到達された、
ハンドメイド・ミュージックの最高峰、というストーリーもあるだろう。
その音楽の聖性に、世俗への強烈なアンチ・メッセージをみることもあるだろう。
もっと言うなら、ポップ・グループとしての立場を捨て、
ヒット・ソングを望むメンバーの意見を振り切り、
ひたすらに最高のヴァイブだけを求め続けた、
つまりは、音楽へ没入することである種資本主義との決別を果たしたブライアンへの、
そこには拭いがたい憧れがあるような気がしてならないのだけど。
なぜならそれは、なんとも純粋な、抵抗運動だからである。
現在のアメリカン・インディーのトレンドに最大の影響を及ぼしているバンドは、
RED HOT CHILLI PEPPERSでも、
SONIC YOUTHでもなく、
THE FLAMING LIPSであることに、異論はないだろう。
ノイズからフォークからサイケデリックからローファイからエレクトロから、
それまで試行されてきた実験をいったんひとつの圧縮機に入れてしまって、
濾過抽出されるそれらおのおのからの「自由さ」をサウンドにした
彼らの手腕は、もっともっと評価されていいと思う。
ここにきての同国次世代の活気には、
確実にTHE FLAMING LIPSの蛮勇とその継続が力を与えている。

けれど、もっと言っておくべきことなのは、
そのマインドだ。
ウェイン・コインが鋭角に吐き出す世界への疑問符と同時に、
その顔にたたえる微笑みのことだ。
そこには、かつてロックが経てきた悲壮感の革命でも、
原理に過ぎる革命でもない、
いわば「明るい革命」とでも呼べそうな、
理性的で人間的で、ひとびとを等しく招き入れるような闘争の姿勢がある。
そんな、かつてなくしたたかな革命を目指すこうした姿勢は、
まさしく、いまの意識的なインディー・アーティストが同調する姿勢である。
その音には、誰もがいつしか笑顔で闘争に参画しているような
ファンタジックな瞬間が立ち現れる。
それは、「希望」の理想型をわれわれに抱かせるものなのだ。

そしてもちろん、それがもっとも現実化するのが、
彼らのライブであることは言うまでもない。
目撃することを不可避とする、理由である。
ここ数年の欧米ロック・フェスで、圧倒的最多ヘッドライナーをつとめているのが、
THE KILLERSじゃないだろうか。
英国先行で火のついたその人気は、たった3枚のアルバム・キャリアながら、
彼らをグラストンベリーとレディングの英国2大フェス制覇へと押し上げ、
同時平行して本国アメリカでもいまさら説明の必要のないサクセスを手にしている。
そのTHE KILLERSが支持された理由は、よく言われるように、
豪勢なシンセに象徴されるニュー・ウェイヴ・マナーのメランコリーと、
臆面もないエモーショナルなメロディ・ライン、だろう。
ロックが現在までに獲得した、「誰しもの琴線を揺さぶる言葉」を、
THE KILLERSほど巧みに、かつ(ここが大事だけど)勇気をもって語るバンドは、
いまほかにいない。
デビュー当時、知り合いのあるアメリカ人のインディーおたくが
「バンド名も曲名もダサくて聴けない」と言っていたのを思い出す。
なるほど、「ミスター・ブライトサイド」であり、
「ホエン・ユー・ワー・ヤング」であり、
「ヒューマン」なのだから。
その知り合いは、けれどいま、THE KILLERSのファンだ。
THE KILLERSは、普遍がときに大味になることを恐れない。
彼らは、偏狭なインディー・メンタリティすら飲み込んでしまう、
ポップの力を信じているバンドなのである。

しかし、なぜTHE KILLERSだけがそう信じられるのだろうか?
僕は、彼らの故郷、ラスヴェガスの原風景にそれを見る。
あのどこまでも人工的で、どこまでも虚飾的で、
けれど、間違いなくそれは「ひと」の手によって作られたという意味において、
やはり「われわれそのもの」にほかならないという、
倒錯した郷愁すら感じさせてしまう、
あのネオンの光景だ。
あのネオンの光が照らす場所で起きる、
ひとびとの「ファンタジー」。
ひとは、ラスヴェガスのような「ファンタジー」の中で生きているのだ。
無論、その「ファンタジー」とは、つまり、「ポップ」ということである。
THE KILLERSのあの盲目的なまでの「ポップ」への信仰は、そこに由来すると思う。
そして、だからこそ、彼らの「ポップ」は、
忘れ去られる浮き世の戯れ歌ではなく、
われわれの記憶といまを揺さぶるのだ。


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ブリティッシュ・アイコン/時計じかけのオレンジ

ご存知、UKでは71年に公開され、日本では72年に公開された問題作。

これまでにも数え切れないほど多くのロック・バンドたちが、
本作に登場する「近未来の若年層=問題児アレックス」君の
「あけすけな暴力&セックス観&皮肉たっぷりのアイロニー/風刺感覚」を
自らのイメージや表現のモチーフとして借用してきた作品でもある。
(今思い出せるだけでもブラーの“ユニヴァーサル”のPVとか)

サントラに使われているのは主にクラシックだけど、
そういう意味でも凄くR&Rな映像作品のひとつ。

観た当時ぬるま湯に浸って生活していた自分にとっては、
鉄パイプで頭をぶん殴られるくらいのショックだった。
まぁ若いときに観ちゃったからなー。

生まれて初めて味わった、危険で甘美な禁断の果実、、、。

アンソニー・バージェスの原書も即買いして読みふけったし、
ますますパンクに深入りするきっかけにもなったけど。

という意味でも、
僕にとっては「初ロンドン」をそのままシンボライズする映画でもある。

NMEに7日のセットリストが出てました↓

'Fuckin' In The Bushes'
'Rock 'N' Roll Star'
'Lyla'
'The Shock Of The Lightning'
'Cigarettes And Alcohol'
'The Meaning Of Soul'
'To Be Where There's Life'
'Waiting For The Rapture'
'The Masterplan'
'Songbird'
'Slide Away'
'Morning Glory'
'Ain't Got Nothin''
'The Importance of Being Idle'
'I'm Outta Time'
'My Big Mouth'
'Wonderwall'
'Supersonic'

'Don't Look Back In Anger'
'Falling Down'
'Champagne Supernova'
'I Am The Walrus'




世の中は「バランス」と「タイミング」だ。
Oasis - Don't Look Back in Anger - Vancouver - 8/27/2008


アコギでの演奏になってます。他の曲もアコギ使ってる曲が多いです。
来日が楽しみですね♪