三国志:孫権と北寺塔と開元寺 | 駱駝の蘇州便利手帳

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江蘇省蘇州市周辺に特化した情報をお伝えしてます。
オシャレやグルメは載せてませんw 情報の過信☆厳禁!!

歴史健忘録~(´∀`)

 

 

 

ココは蘇州駅の南広場

 

駅舎の2階からは

視界の左に、孫権が母親の為に

建てた「北寺塔」が見えます。

 

昔は登れたんですけどねー

 

 

北寺塔(běi sì tǎ)

 

北寺塔は【北塔报恩寺】の俗称です。

 

地元の人は、だいたい

北寺塔って言ってマスね。

 

門前にある駅名も「北寺塔」

 

地下鉄4号線「北寺塔」4号口から

徒歩30秒です~(´∀`)

 

こんなに行きやすいのに

ブログに載せてなかったのは

駱駝の勘違いが原因・・・・・

 

 

単純に書き忘れ!Σ(・ω・)

 

 

 

 

という訳で(´艸`;)

 

今回は蘇州にある

三国志関係の中でも

飛びぬけて有名な

「孫権が母の為に建てた菩提寺」を

ご案内しますね!

 

 

 

 

 

 

孫権ネタで書くことを

宣言しときながら

いまさらですが。

 

実は駱駝・・・・

三国志、読んでないので

持ってる知識が、いろいろ残念・・・・

 

だって、赴任当時は

中国史にあまり興味なくてねぇ~

 

はい、恥ずかしい間違いを

思いっ切りヤラかしましたよ。

 

 

 

国と時代が

混ざっちゃってた件ヾ(;´▽`)

 

 

似たような、ヤラかしさん

結構居るようなので

基本情報から整理しますねw(´・ω・`)

 

 

 

 

<呉国について>

中国の長い歴史において

呉の国は、

別の時代に2回現れます。

 

 

呉 (春秋) - Wikipedia

BC585年~BC473年、春秋戦国時代

現在の蘇州市に首都を置いた。

 

6代目の闔閭王は、

楚から亡命してきた伍子胥を取り立て

伍子胥が孫武を見出し、軍師に迎え

王を支えて国を強大にしたが、

越との戦争で受けた傷がもとで死去。

 

7代目の夫差は越から贈られた

傾国の美女:西施に篭絡させられ

政治をおろそかにして国を滅亡させた。

余談ですが、中国には

日本の天皇の祖先は「呉の太伯」

つまり、春秋時代の句呉を建国した人の

子孫である、との説が残ってるらしいデス。

本朝通鑑 - Wikipedia

 

江戸幕府も現政府も

完全否定してると思いますが。

 

駱駝はシーボルトがまき散らした

源義経=チンギスハーン説の時くらい

吹いた~( ゚艸゚)ブッ

   ↓

義経=ジンギスカン説 - Wikipedia

 

※詳しくはWikiで!

ついでに寄付してやってくださいww

 

 

 

 

呉 (三国) - Wikipedia

222年~280年、三国時代

孫権が魏から独立させて

長江流域に打ち立てた王朝です。

この時の首都は、現在の南京市


 

孫一族は、孫武の子孫だとのことで

代々、地方役人の職を得ていた。

そんな小役人であった孫堅(父)は

武功をあげ自力で出世していく。

 

戦上手な孫堅ではあったが

191年襄陽の戦いで戦死。

甥の孫賁が軍を引き継いだことで

 

孫策(兄)は指揮権を奪われた。

後に袁術から1000人程度の軍を与えられ

これを元に、父と同じく戦で頭角を現した。

 

この時点では周瑜のいる側の孫策ですが

袁術が皇帝を馬鹿にした事件で離反し

曹操側に鞍替え、曹操弟と孫策妹の

婚姻による同盟を得る。

その後の戦いで父の仇も討ち果たした。

 

孫策が200年、刺客により命を落とすと

勢力は孫権に受け継がれた。

 

生前、兄は「兵を率いて戦に勝ち、

天下を争うのは俺の方が上だが、

人材を良く使って江東を守るのは

お前の方が上だ」と弟を褒めていたが

言葉通り、孫権は勢力分散の危機を

何度もまとめあげ、呉国を建国した。

 

 

 

あと、実際の歴史所にある出来事と

それを題材にした人気小説は

当然ですが、違ってる部分があります。

 

「三国志 正史 義勇」で検索すれば

お好きな方の記事が

大量にヒットするので

気になる人は検索GO!(/≧∇≦)/

 

赴任や帯同者だと

そこまで興味が持てず、正史と小説を

まぜこぜにしてる人も多いのだけど・・・

 

ぶっちゃけ~

観光メインで楽しむ人ならば

それで全然OKだと思いま~す(´艸`)

 

■三国時代の歴史と三国志演義

三国志正史→史実のこと

  歴史を編纂した様々な書物に掲載された

  本当の出来事を指し示す

  「三国志正史」という書物はない

 

三国志演義→歴史を題材とした著名な小説

  「漢王朝の血を引く高潔な主人公劉備」と

  「王朝を支配し専横を振るう曹操」など

  正vs悪という判りやすい題材で展開する。

  史実をベースに、民間伝承や

  歴史書では残っていない部分を

  ドラマチックに盛り立てて脚色している。

  読み手を退屈させない不朽の名作。

 

三国志演義 - Wikipedia
 

 

 

 

 

これで基本はOKかな?(* ̄▽ ̄)

 

江蘇省に住んでる人は

距離感、判ると思うケド

蘇州市と南京市って

約200kmも離れてるんですよ。

当時の移動手段は

騎馬、馬車、牛車、徒歩、船

どれをとっても、長旅となります。

 

なのに、蘇州には

意外と多い、孫権さん伝承。

 

ちょっと不思議(´・ω・`)

 

 

ズバリ聞きましょう!

Q:孫権と姑苏(蘇州)との関係は?

A:オカン(呉夫人)が蘇州人!

   ↓

呉夫人 - Wikipedia

 

 

ぜんぜん

不思議くなかった~ヾ(;´▽`)あはははは

 

 

 

 

 

<孫権の家族について>

孫権の母親について調べてみました。

 

呉夫人は、孫権の父【孫堅】の正妻。

才色兼備だから惚れられたらしい!

 

呉夫人の父親は

春秋時代の初代王の血筋で

一族の元の姓は「姫」でしたが

呉国が滅亡した時に

祖先が「呉」に改姓したようです。

 

呉夫人は

後漢の役人(中郎将)だった孫堅が

191年に戦死したあと、託された

王の証「玉璽」を守りってましたが

拘束され、奪われ、追放されます。

 

失意の内に、実家を頼って

蘇州へ移住。

場所は揚州呉郡呉県なので

現在の蘇州市付近となります。

 

なお、孫権の乳母には

蘇州人を起用しました。

 

子供は男子4人。

孫策孫権孫翊孫匡

女子1人の計5人とされています。

※「諸葛瑾伝」「法正伝」「潘濬伝」によると、

孫堅には全部で3人の娘がいますが

いずれが呉夫人の娘かは判断できないそうです。

 

 

蘇州には近年まで

孫権の父の墓、兄の墓

南門の南側の墓地に

 

孫権の妹2人の墓

蘇州駅の西側のどこかに

遺されていたようですが

 

調査結果が正しい事を示す

史跡である事を証明する石碑も

付けられてた(らしい)んですけどね。

 

資料的価値が低いとされて

道路拡張工事や

再開発で壊してしまったようです。

 

貴重な歴史資料であり

観光資源でも、サクッと消える

驚異のチャイナ版シムシティ( ▽|||)

 

 

 

そんな中で、

いまも健在な孫権ゆかりの北寺塔

残っててよかったぁ!(´∀`)

 

オカンが蘇州人で、

自分にとっても蘇州がゆかりの地ならば

孫権がわざわざ蘇州の城内に

母の菩提寺を建立したのは

とても納得がいくものですっ(* ̄▽ ̄)


 

次は、孫権さんのお父さんを

調べてみました!

 

父 孫堅(そんけん)

次男 孫権(そんけん)

 

うん。

日本語だと紛らわしい(´・ω・`)

 

 

 

おぉ。

孫武の末裔ですか。

蘇州地では、血筋ってだけで

尊敬されそうですけどね。

 

今でもその血族の集会があってね。

 

毎年2月に、孫武さんのお墓で行われる

記念祭に行けば、孫武さんと孫権さん

の末裔の皆さんと会えますよぉ~

散歩:孫武記念園とレンガ博物館 ~その1

 

詳細は、三国時代の呉の説明で

だいぶ細かく書いちゃってるので

省略しまーす(´・ω・`)

 

 

 

 

基礎知識が増えて

もうそろそろ

「観たーい」(><)
が募って来たと思うので

お寺の観光案内に移ろうかな(´艸`)

 

 

北塔报恩寺(北寺塔)

住所:蘇州市人民路1918号

拝観料:無料(2021年)

時間:7:30~17:00

江南第一古刹北塔报恩寺 – 西园戒幢律寺 (jcedu.org)

 

 

蘇州で最も古い仏教寺院で

1700年以上の歴史があります。

 

市民に通称「北寺塔」として

親しまれている8角9層の北塔は

高さ76メートルもあり「江南第一の塔」

として大事にされてきました。

 

 

<北寺塔の沿革>

蘇州で最も古い仏教寺院です。

三国時代呉の赤烏年間(西暦247~250年)に

孫権が2人の母の恩に報いるため

「通玄寺」を築造したのが最初となりマス。


唐の開元年になり

「全国各郡に年号と同名の寺を置くように」

とオフレが出たことから

通玄寺は開元寺と改名されました。
 

その後、唐の同光年間に

呉越王の銭王が

母へ恩を報いる為、また佛恩に報いる為に

開元寺のを元に寺を再建、「報恩寺」と命名します。

 

戦禍に何度も焼かれ、

破壊された蘇州の街のように

このお寺も再建を繰り返してきました。

 

 

北寺塔は梁時代(502~557年)の創建と伝えられ

当時は11階層の宝塔でした。

現存する塔は、1層から6層までが南宋時代

7層以上は明代、廂と欄干は清時代に再建され

補修されながら現代に至っています。

 

高さ76m、八角七層の塔は

各階に回廊を持ち、最上階の9階からは

蘇州を一望できました(現在は立ち入り禁止)

 

 

姑苏区は建築制限があるので

今でも登ればこんな景色なのですが

 

2012年、蘇州に来たときには

別料金10元払えば

いつでも登れたのよね( ノД`)

 

いつでも行けるからと

悠長に構えていたら

立ち入り禁止になってしまい

登り損ねたのが、いまも悔しい・・・・・

 

 

 

 

 

<塔以外の沿革>

・寺院の創建は西暦247~252年

 孫権の生母である呉夫人と

 孫権の乳母である陳氏の為に建立され

 「通玄寺」と名付けられました

・738年、「開元寺」と改名

・955年、「報恩寺」と改名

・1104年、「恩万歳寺」と改名

・1245年、「恩万歳賢首教寺」と改名

・1762年、乾隆帝は3度目の南巡で

 この寺院を訪れ、額を授けています

・1895年、天台宗敏華高僧が「恩教寺」と改名

・1921年、荘氏と李朴誠の資金で

 大雄宝殿が再建

・1957年、江蘇省の文化財保護指定

・1978年初頭、蘇州革命評議会が

 「北塔公園」と呼ばれる新聞寺を修復

・1986年に「梅園」が建設

・1988年元旦に「北塔公園」が完成

 蘇州市仏教協会は北塔報恩寺の修復を重視

 西園寺の明開、安上長老

 霊岩山住持明学長老

 寒山寺法主性空長老も多大な貢献を払う

・1993年8月、蘇州市政府は宗教政策を実施

 北塔公園の財産権を蘇州仏教協会に返還

・1994年元旦、北寺公園が正式に譲渡。

 市仏協が引き継いだ後、浄持法師らが駐留

・2003年6月、蘇州市政府の承認の元、

 北寺公園の管理局と寺院が共同管理して

 宗教施設を再開。

・2006年、古代建築として、国務院が

 第6回全国重要文化財保護に指定

・2008年、住職は寺院の伝統的な管理復活に努め

 2014年12月31日、北塔公園管理は北塔報恩寺の

 管理下に置かれた。

 同時に、修道院は、文化的遺物部門の指導の下

 官庁の支援で荒廃した家屋の修復と調整

 

 

 

 

お寺のHPに載ってたヤツ

翻訳してみたら

細かっ( ▽|||)

 

ようするに。

 

城下町なので

戦争のたびに焼かれ

破壊と再建を繰り返した蘇州の街は

 

寺も塔も同じく、何度も破壊され

何度も焼け落ちて、再建されまくってた

という事ですねヾ(;´▽`)

 

ついでにゆったら

塔以外の多くが近年の再建ですね。

それでも、長く内戦と、国際間戦争と文革を

乗り越え、よくぞ残ってくれたという

ありがたい気持ちになりマス。(ー人ー)合掌

 

 

 

大変立派な正門

 

狛犬はそこそこ古い時代のモノでした(´∀`)

 

2021年現在、拝観料は無料です

 

ルートは単純で、入り口から

まず北寺塔に向かい

隣のエリアから戻って来る感じ?

 

 

苏康码(スーカンマー)を見せて

中に入り、お線香を受け取ります

 

無料で3本

 

火鉢で着火し

 

北を向いて、頭上まで2回

お線香を上げ下げして、祈る

 

東を向いて、頭上まで2回

お線香を上げ下げして、祈る

 

南を向いて、頭上まで2回

お線香を上げ下げして、祈る

 

西を向いて、頭上まで2回

お線香を上げ下げして、祈る

 

最後は、ココにお香を立てる

 

 

奥に進むと、不思議なオブジェ発見

 

石碑もあるケド

由来の説明が何もないので

誰か知ってたら、教えて欲しいデス

 

 

開けたエリアに出ると

ケータイでは全体像がカメラに

納めきれないくらいの角度で

塔がそびえていました

 

塔に登る階段は閉じられていて

中に入る事は出来ません

 

では参拝者は何をするかと言えば

『時計回りに3回まわれ』

と書いてあるので

 

グルグル回遊魚のように

 

3周すると、願いが叶うらしいよー

 

 

 

 

 

 

 

塔をまわって、このエリアで

ヤルことなくなったら

隣の庭園に向かいましょう

 

東の寺の建物は

1990年代に整えられた

新しいものばかりで

重要な史跡はありません。

 

そのかわり

修行僧の学びの場として

実用的な空間になっています

 

お散歩のつもりで

 

いろいろ見て回って下さい

 

 

丸穴を抜けると

 

2003年から公開されるようになった

公園(庭園)に出ます

 

登れる黄石の築山が見どころカナ?

 

アスレチックな道を進むと

最頂部の東屋でボランティアさんが

お茶やまんじゅうを

配ってる事がありますよ

 

このお茶会やってた高台から見る

池の景色が良くて

 

下から高台を見上げれば

黄石築山が視界を刺激します

 

隅々までみたけど

結局、東のエリアにあった古いものは

張士誠紀功碑だけでした

張士誠 - Wikipedia

皇室御用達の塩の

生産・管理をしてた人。

横流しして、私腹を肥やしてた側面がある。

 

ただし、儲けた金銭で

私腹を肥やすのではなく

治世に尽力したため

地元での評価はかなり高い。

 

とある時、

土豪により貶められたことに腹を立て

兄弟3名と仲間18名と共に出撃すると

塩丁らが同調し、たちまち泰州を落とすほどの

大きな反乱軍となったもよう。

 

当時、全国最大規模であった

塩の産地であり、都への杭京運河での

輸送拠点ともなるこのエリアで起きた

この反乱は、元朝も大変重く受け止め

右丞相が官軍による制圧に動き出したが

そのタイミングで政敵が動き出し

朝廷内の権力闘争により右丞相は失脚。

この因果で、朝廷は長い期間

江南地方の覇権を失う事となった。

 

1356年、江南で起こった

飢饉対策として再び蜂起したが

この時、江南地区の経済の中心であった

平江路に侵攻て占拠したのち

『隆平府』と名付けて国を興した。

 

 

・・・・・ということで。

朝廷から見れば、

完全に反乱分子ですよねぇ(´∀`;)

 

しかし張士誠は、

蘇州周辺において

・水利事業

・水田の開墾

・産業の振興

・新貨幣の鋳造

・軍事面の改良   など

 

私財を投げ捨てる勢いで

土地の問題に尽力したため

地元民には立派な治世を行ったとして

英雄視されているんデスよ!

 

土地ならではの英雄伝、

とても興味深かったデス(´艸`)

---------------------------

 

 

お坊さんの生活区らしき

新築エリアを通り抜けて

 

出口付近まで来たら

充電も可能な駐輪場があったよー

 

駐輪場は、この門の中

 

この門は、小道の奥~

 

 

电瓶车でお出かけになる方は

この駐輪場が一番便利そうです(´∀`)

 

 

 

以上です

 

 

 

 

 

 

 

 

 

---------おまけ------------------

あまり知られていないのですが

もう一つの開元寺について

書き残します。

 

 

かつて、開元寺には敷地内に

『無梁殿』という石造りのお堂が

建立されていました。

 

開元寺自体は、891年

孫儒氏が蘇州を占領した際に

焼かれてしまいますが

 

木製ではなかった無梁殿は形が残り

925年に呉越王・銭鏐氏が

(比類なき膨大な金の力で)

北寺塔から盤門辺りの所に移建しました。

 

いまも無梁殿は

キレイに遺されていますが・・・・・

表向きは知られていません

 

なぜなら、時代の流れで

移築先が住宅地に取り込まれ

 

ココの花園の中に

ひっそりと建っています。

 

「観光客は出入りして欲しくない」

という、住民の要望のために

見学させて貰えないのデス。

 

 

史跡私物化すんな!(# ゚Д゚)

 

有名史跡を隠匿とか

意外と多い蘇州アルアル💢

 

 

どーしても見たい方は

百度地图でバーチャルで

ゆっくり見学して下さい(/≧∇≦)/

 

 

 

苏州开元寺无梁殿 兴建于 1618 年

江苏苏州之开元寺无梁殿

位置:苏州市区东大街万丽花园小区内

年代:明万历

1956年列为江苏省文物保护单位

 

 

■参考

“开元寺无梁殿”中国四大无梁殿之一_悠哉游哉之走遍苏州_新浪博客 (sina.com.cn)

“百年旧影”开元寺无梁殿追忆--吴文化网站 (wuculture.net)

江苏苏州之开元寺无梁殿_行者云龙_新浪博客 (sina.com.cn)

江南第一古刹北塔报恩寺 – 西园戒幢律寺 (jcedu.org)

 

 

(簡単な紹介)

 

無梁殿は、文字通り屋台骨となる

梁(はり)がない「石積みの最高峰」ともいうべき

古代の建築様式で

流行した年代に沢山作られたのですが

現存している棟は多くありません。

 

高さ19メートル、約235平方メートル

寺院としてさほど大きくありません

 

2階建てで、床の真ん中には井戸があり

4つの壁には石の彫刻が

ちりばめられています。

 

この史跡について調べてみると

北塔报恩寺とほぼ同じ沿革が

表示されますが

元は1つのお寺にあった棟なので

当たり前っちゃ、当たり前ですよね!

 

判らなかった駱駝は

歴史探訪の会の皆さんに

教えを請い、理解したという訳です(´艸`)

 

メンバーさんに教えていただきましたが

 

孫権は通元寺を

母親と、乳母の為に建てたそうです。

乳母の名は『陳』。

 

891年に蘇州が敵国に占領された際

人民路にあった開元寺が焼失。

 

唐東光3年(925年)に

開元寺の再建の際に

無梁殿を移築しています。

 

その後、北寺塔の再建も行われ

寺院が2か所に別れた形になります

 

盘门のお寺は

清王朝の咸豊帝の10年(1860年)に

官軍に破壊され

同治帝の12年(1873年)に一部だけ

再建されたものの、古い景色は

復元されることは有りませんでした。


残された無梁殿は唯一の古代建築物です。
当時流行した建築様式のようです。

 

木製の梁、柱、母屋、垂木は無く

石材をアーチ状に組むことで基礎を作り

外側をレンガで覆っています。

 

壁にあるサンスクリット文字と

中国語の漢字は

仏典より選ばれたようです。


2階建てで、上の階は仏典用

下の階は仏教用に使用されていたそうです。

 

建物は大きくありませんが

全国に残されてる同種の無梁殿としては

保存状態の良さ、絢爛さなど

常にトップ10入りするそうです。

 

荘厳で繊細

間違いなく明王朝の

最高の建築技術を伝える素晴らしい寺院です。

 

 

出来る事なら

実物をそばでみてみたーい(≧∇≦)

 

今度、住人のフリして

こっそり忍び込もうかなぁ・・・・・(´艸`)

 

 

でわでわw

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中国渡航に!