安徳天皇の謎-その2 | 知っとうや(真実を求めて?!)

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⚡2900年続いた人類中心文明は、近い将来、五六七(弥勒)時代となり、本来あるべき姿に戻ります。それまでは産みの苦しみが続きますが、見事に成就して欲しいものです。⚡

前回の続きになります。
<安徳天皇の謎-その2>

壇ノ浦の戦いで関門海峡に沈んでいった安徳天皇は、本人ではなく阿修羅に操られていた偽物の安徳天皇だったのです。

本物の安徳天皇は、平氏の護衛隊に守られ九州に逃れます。福岡県の那賀川町には安徳という地名が残っていますが、ここは逃れた安徳天皇が一時滞在した場所です。
<那珂川町安徳-地図>

その後、福岡県久留米市へ南下します。ここには、全国の水天宮の総本社である水天宮があるのですが、水天宮には天之御中主神とともに安徳天皇が祭神として祀られています。
<水天宮>

さらに熊本県の各地にも安徳天皇の伝承が残ることから、福岡⇒熊本と追っ手を逃れて移動したのだと推測できます。

一方、逃亡する安徳天皇には数人の影武者がいて日本各地に散らばり、阿修羅に操られた後白河法皇、及び、後に阿修羅の成り済ましにあった偽源頼朝の両者の追っ手から、本物の安徳天皇を護るため目くらましを行ったのです。

前回記事でご紹介しました大阪府能勢町や鹿児島県垂水市以外にも、徳島県三好市栗枝度、長崎県対馬、佐賀県佐賀市、鹿児島県硫黄島、そして遠くは青森県津軽半島にまで生き延びた安徳天皇の伝承が残っています。

<栗枝度神社の案内板>
安徳天皇の火葬場跡とされている

栗枝度神社②


これらの伝承地は、安徳天皇の影武者たちが過ごした場所なのです。

一人の天皇に関係した場所が、これほどまでたくさん存在しているケースは他にありません。

それだけ、阿修羅による天皇家侵略に対して、当時の正当な朝廷関係者、平氏の権力者たちが危機感を持って対応した、ということのなのでしょう。後鳥羽天皇の神器なき即位が当時の混乱を表しています。
<WIKI:後鳥羽天皇神器なき即位>

それでは、九州を転々と逃亡していた本物の安徳天皇は、その後、どうなったのでしょうか?

安徳天皇は、その後九州から四国に渡り、現在の高知県越智町にある横倉山に辿り着いたようです。

ここに到着した時の安徳天皇は10歳前後と推測しますが、ここでようやく安住できたようです。

そして、妃を娶り、密かに皇室を継承したのです。それが現在に残る横倉宮跡なのです。

ところが、幼くして逃亡生活を続けていたためか、体は弱く、23歳という若さで当地で崩御した、と伝承が残っています。

現在では、当地が宮内庁によって横倉宮跡とされ、立派な安徳天皇の陵墓が存在し、宮内庁による安徳天皇陵の参考比定地とされています。
<横倉山-安徳天皇陵比定地>

横倉宮跡にある安徳天皇陵参考地

横倉宮③

横倉宮④

素晴らしい波動!

横倉宮②


正式な安徳天皇陵墓としては、宮内庁が認定しているのは山口県下関市の赤間神宮内にある陵墓ですが、それ以外に参考地として数カ所存在しています。
<WIKI:安徳天皇陵墓-宮内庁参考地>

このように複数ある天皇は珍しいのですが、その理由は、本物と偽物、それに複数の影武者が存在したからなのです。

その中で、実際に正しい安徳天皇陵墓は、横倉山にある陵墓だったのです。

また、本物の安徳天皇が崩御した後、皇后は阿修羅の追っ手を逃れるため集団で移動します。

おそらく四国の今治辺りから、現在のしまなみ海道沿いに船で島々を渡り、尾道辺りに上陸したのだと思います。

そこから、中国地方瀬戸内海沿岸を東側に進み、おそらく現在の兵庫県姫路市に辿り着いたのだと思われます。

何故、姫路なのかと言いますと、実は、この後、皇后一行が向かったのは、鳥取県八頭町姫路だからです。

八頭町姫路には、安徳天皇が落ち延びたという伝承があり、五輪塔が存在しています。実は、この場所は安徳天皇が落ち延びたのではなく、安徳天皇が崩御後に皇后一行が落ち延びた場所なのです。

横倉宮①

八頭安徳陵①


姫が移動した道だから姫路なのです。皇后は兵庫県の姫路から鳥取県の姫路に落ち延び、そこで余生を送ったのです。

このように歴史は勝者(阿修羅)によって改竄されています。

しかし、改竄すると必ず矛盾が生じます。辻褄が合わない痕跡がたくさん残されているのです。真剣に探究していけば真実は見えてくるのです。

皆さんが学校で習う歴史はほとんど改竄されていると考えて間違いないのです。

最後まで読んでいただきありがとうございます。