御霊信仰の真実 | 知っとうや(真実を求めて?!)

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⚡2900年続いた人類中心文明は、近い将来、五六七(弥勒)時代となり、本来あるべき姿に戻ります。それまでは産みの苦しみが続きますが、見事に成就して欲しいものです。⚡

前回の記事に少し関連しますが、御霊信仰(ごりょうしんこう)というものがあります。

ウィキペデイアでは、御霊信仰は次のように定義されています。
<WIKI:御霊信仰>

「人々を脅かすような転載や疫病の発生を、怨みを持って死んだり非業の死を遂げた人間の「怨霊」のしわざとみなして畏敬し、これを鎮めて「御霊」とすることにより祟りを免れ、平穏と繁栄をジル元しようとする日本の信仰のことである。

前回記事では、疫病をおこす神、行疫神にされた牛頭天皇や素戔嗚尊をご紹介しました。
<参照:祇園・八坂はイエス>

これらも御霊信仰の一形態になるのでしょうが、牛頭天王や素戔嗚尊など神話に登場する人物だと、存在したかどうかも不透明ですし、あまりにも時代がかけ離れているため、信仰心も薄くなりがちではないかと思われます。

この御霊信仰が盛んになったのは平安時代のようです。平安時代には、神話の伝承ではなく、実際に存在していた為政者の怨霊が流行ります。
 
藤原広嗣、井上内親王、早良親王、後鳥羽上皇など、たくさんの例があげられます。

その中で、最も有名な怨霊は、天神様、学問の神様として祀られている菅原道真でしょう。
<WIKI:菅原道真>

北野天満宮や太宰府天満宮で主祭神として祀られていますね。


菅原道真は平安時代初期(800年代後半)に活躍した貴族で、時の天皇に重用され、一気に右大臣(朝廷の政治ポストでは太政大臣、左大臣につぐポスト)まで上り詰めた時代の寵児です。

しかし、天皇と藤原氏の権力闘争に巻き込まれ、901年に太宰府に左遷されてしまいます。

そして、903年に太宰府で死去します。菅原道真は、謀略による左遷を怨みながら死んでいったとされています。

道真の死後、京で異変が相次ぎ、朝廷内の有力者が次々と病死します。さらに930年には清涼殿に落雷があり、朝廷要人に多くの死者がでます。

これらの災いは、菅原道真の怨霊の仕業であるとして、菅原道真は京都の北野に天神様として祀られます。これが北野天満宮になります。

北野天満宮(昨年11月参拝)
北野天満宮①

そして、左遷先の太宰府にも祀られます。これが太宰府天満宮になります。

太宰府天満宮(昨年春参拝)

太宰府天満宮

この天神信仰が全国に広まり、各地に菅原道真を祀る神社が建てられていき、道真の怨念は鎮まったとされています。これが御霊信仰の代表的なものです。

しかし、私は、菅原道真が、神話時代の思兼命(おもいかねのみこと)という高貴な魂が転生したことが分かり、菅原道真の怨霊に関しては疑問を感じだしました。それまでは、菅原道真は普通の人間なのに何故、神様として祀られているのだろうと不思議に思っていました。

怨霊になっとされる為政者の多くは一霊四魂のバランスがとれた高貴な魂の持ち主です。少なくとも上の六道輪廻の魂でしょう。それなのに、人生で恨み・辛みがあったからといって、怨霊化するわけがないのではないはずです。

梅原猛氏は、聖徳太子が怨霊となったと著書で書いていますが、それはあり得ません。

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死後の怨霊というのは、十界に戻れない転生できない浮遊霊ということになります。それは金星系の魂と同じことを意味します。高貴な魂が簡単に怨霊化する訳がありません。

有名な怨霊は、すべてとは言いませんが、多くの場合は金星系が、その高貴な魂を持つ人物を死後貶める目的と、病気や災害を起こし、それを怨霊のせいにして庶民を混乱させるための策略だったのです。

そのために金星系は、御霊信仰を広めたのです。怨霊にされた魂はたまったものではありません。怨霊の祟りは存在しますが、それは意識の低い魂の場合です。

金星系は、平安時代には
怨霊を創り上げることで、世の中を不安に陥れたのです。これに対抗するために出てきた職業が陰陽師なのでしょう。

<WIKI:陰陽師>

御霊信仰とはまやかしなのです。


最後まで読んでいただきありがとうございます。