旗と名前と自分の身のおきどころ | キラキラ星のブログ(【月夜のぴよこ】)

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先日 自衛隊の第三師団に行ったときに訓練展示で感じたことが 
自衛隊の儀式の中の国旗入場や 国旗掲揚、国歌斉唱がどんだけきちんとされているか知ってる?自民党の会にいくとやってくれるよね。 

わたしの小学校時代には、校舎のてっぺんまで学生がずるずるロープをひっぱってじわじわと国旗が登っていく間、直立不動で国旗をみあげながら国家をうたう国旗掲揚があったけど、今はやってないんだよね。 

そう言う国旗とか国歌とかって戦略的にわたしたちから奪われていったんじゃないかとおもう。 

日本人が団結したり、やる気をださないためにねっ。 


今日 陸上の大会の入場式をみて確証したので書いておく。 

日体大の集団行動の動画でもあるんだけど・・・・ 


http://www.nicovideo.jp/watch/sm11937881 
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なんか今動画アワードみたいなので、女子の集団行動もはっとく。あとでどぞ。 
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1711040 

この日体大の動画の全体行動の最後のあたりで、整列して座っている集団の中から、名前を呼ばれた学生が挨拶するシーンがあるんだけど、名前と出身地を言ってるよね。石川県でやった集団行動なので、石川県出身の学生が呼ばれて紹介されているんだけど・・・・今の左系の教育や社会になれた人たちだと違和感もつことだとおもう。 

たぶん、多くの人がこれを聞いて違和感をもつような教育を受けているんだとおもう。 

自衛隊の第三師団の訓練展示で、いろいろな訓練を見せてくれていた部隊の隊長やその時、何かを展示していた隊員の氏名と部隊名と出身地が呼ばれていた。 

さらに、自衛隊の部隊の旗や隊長などなどの氏名が呼ばれ、そのときどきで師団長にご挨拶していた。さらに、兵庫、大阪、京都、滋賀など第三師団が守っている県の旗なども入場していた。 


同じものをスポーツの大会でみた。 


参加する高校の校旗をもった学生の代表。優勝校の代表と氏名。大会を司る人たちの氏名やその大会旗などの旗が会場に入場し、国旗や大会旗の掲揚があった。 


旗と人の氏名 所属する土地や集団の名前。 


冷戦体制がおわってから日本の左翼、特に菅直人、仙石、枝野などが座右の銘としている全共闘世代のバイブルが松下圭一。大阪の橋下市長の師 大前研一などもこっから派生した道州制を唱える思想家だよね 

松下圭一の思想はこの名言でだいたい理解できる。 


「市民とは抑圧されてはいけないものである。よって国家と社会と家族を解体すると市民はその権利を実現できる。」 



左翼というのは国を憎み、ルールを憎み、統制されない野蛮な状態を正しいとする人たちなんだよ。無秩序であれば、自分の才覚だけで好きに搾取できるし、横暴に権力を振りかざすコトも可能だ。このポイントがわかればいい。最後に概略を載っけておくけど、ややっこしいのでここがわかればよまなくていいです。 


秩序ある団体、スポーツを熱心にしている集団や自衛隊などには今も旗や組織名を大事にする気持ちやルール 序列や儀礼が残っている。 


なぜか、その集団に帰属している意識をもたせるためには、旗や校歌や儀礼やルールや制服などで、その集団に属しているとういう符号を無数に与えるのがいい。 


これを不自由と思う人もいるのだろうが、制服がある組織とない組織、登校時間のある小中高校と授業時間だけくればいい大学や専門学校。どちらがその集団に属している感覚があっただろうか。同じ制服をきて、同じ時間に登校し、同じ時間に掃除をして、同じ科目を学習し、同じ先生と毎日顔を合わせ、同じトモダチと毎日同じ教室に通う。 


別の服を着ていくことも、好き勝手な時間に登校することも、嫌いな先生の授業をやめることもできなかったはずだ。 

左翼はこういうものを自由にするべきだという。 


そしていろんなものが自由になってきた。国歌斉唱の時間も国旗掲揚の時間もなくなり、面倒な校長の訓示のある長時間の朝礼や整列訓練がなくなった。制服が消え、姿勢を正しくしなさいと怒鳴る教師が消え、廊下でバケツ、忘れ物をしたら校庭3周といった罰は古い昭和の漫画にしかなくなった。 

そんな経験をした子はいないよね。 

その場その場では面倒だったり文句をいったり、していたことが年を経ると鮮明に思い出せるのは、その時間違いなくこういうたくさんの同じルールに縛られている集団に帰属していた経験をいろんな符号で自覚できていたからだ。 

スポーツ選手は学校の旗や部活のみんなのために、そして自分自身の名誉のために戦う。わざわざ望んでしんどい練習や合宿をこなし、怪我に苦しみ、栄養や体調に気遣いながら朝遅くから夜遅くまで練習を少しずつ繰り返し、コンマ1秒を争う。 

そんな彼らは同じユニフォームをきて同じテントをはり、別々の種目でありながら、同じ旗の下にあつまり自分が出場していない大会でも声を張り上げて応援する。自分がどの集団に帰属しているのか彼らははっきりと自覚をもっている。 




自衛隊の演習展示をみていても、命令や笛やラッパなどの1つの合図で一糸乱れぬ動きをする隊員達は確かに大変なんだろうけど、大変なだけなのだろうか? 





なにもしていない自由な人たち。たとえば生活保護を受けている人たちは会社に帰属せず、家族も面倒をみてくれないという人たちだよね。自分の居場所がない。自分にあった仕事がないといい、やりたいことはないという彼らは確かに気楽で働かずだらだらと怠惰な生活を送ることができるが、果たしてそれが幸せなんだろうか? 



松下圭一のとなえた新左翼ののぞむとおりの、完全な自由社会は、キリスト教徒のおそれるソドムやゴモラみたいな地獄図になるんだろうとおもうが、その手前、自分の所属する集団をもたないことが日本人の生きている意義を低下させているのではないかと本当に思う。 


あとでスポーツについてまとめて書こうとおもっているが、たとえば年功序列などの一度はいったらずっと1つの会社に命をささげた勤務体系というのは不幸だったんだろうか? 

会社というものが生涯帰属する集団であったむかし、社訓や社歌、会社の社長の訓示だの儀式だの制服などがあり、ある年齢がこなければ昇進できないが、年齢がくれば昇進していくような逆らえないルールがある社会。 

そういうものに懐かれてその集団の一員であることを有りとあらゆる方法で毎日知らされていた時代にわたしの居場所がないと人は言ったのだろうか?? 


国も会社も家族も結婚制度も 個人の自由を制限する。 

人を殺す自由を奪うし、朝寝坊すると怒られるし、結婚していると浮気したら大変なコトになってしまうのだろうし、国どうしがもめれば国をまもるために一緒に戦わないといけない。 


義務もルールも無数にあるが、 


その国や会社や家族や結婚制度や それまであったいろんなルールが実は生きていく安心をあたえてくれ、自分の居場所をあたえてくれたのじゃないか。 


それを失って生きる意義、自分の守るべき集団がないことこそ、地獄だとこの過酷なコンマ1秒を争うレースをみていて思う。 


1日に40km走ったあとに、100mダッシュ 100本ヤレとか いう合宿やってる子たちでないと1500m 4分内は出せませんですよ。 


肉離れとか人によっては疲労骨折とかいろんな怪我とつきあったり、一体何カ所鍼うってんだ??というような体の矯正うけたりしながら しだいに体ができあがってきて、ちょっとずつタイムがあがっていく。傍目からみたら 何が楽しいの? つらいことばっかじゃないの??? というようなコトをしているアスリートって仲良くて楽しそうだよ。 

勿論、負けると大泣きしたりするけど・・・・ 

生きてるんだなーーこの子たちと思います。 



すくなくとも 私の居場所がないなんてことは言わないと・・・・ 

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左翼たちがやったことで、もう一つとんでもないことは、昔は名が上がるというと、イイコトだったんですよ。 

■うだつがあがる。 
■名があがる。 
■有名人 

こういう言葉にいい印象があったでしょ? 

どんなことでも名前を隠していてはできない。成績がよくなったり、企業が大きくなったりいろんなことで名前は勝手にしられていくものです。 

ここで左翼がやったのは、名前を隠すこと。名前の挙がっている人を貶め、足をひっぱること。 


昔の大女優は映画会社も劇場もとても大事にしていた。だれにも手もふれさせないくらいにガードしてその美しさ、清純さを保つために守り抜いた。 

吉永小百合などそのころのいい時代のスターだったよね。 

でも今は名があがるとすぐにゴシップやバッシング、わざわざとんでもない所を暴き立てるようなバラエティーにだして貶める。 


昔の映画スターは大事にされていていいなーという印象だったけど、芸能界っていうとヒドイ眼にあいそうくらいな感覚になってしまったでしょ? 

これが、芸能界だけじゃなく、スポーツも政治も公務員などの役人も医者も先生も学者もみんな貶められていった。だから有名にならないほうがいいで。知られないほうが安全だという傾向が、ネットの普及でとうとう、本名はいいたくないという状態になってしまった。 


帰属する集団が帰属する人をみんなで守り、みんなで助け合い、みんなで助け合う。そんな仲間や集団を持たないひとが多いので、対抗することができなくなってしまった。 

村社会がきえたんだよね。 

さらに会社が派遣やバイトだらけになってくると会社も帰属する社会でなくなる。結婚制度も家族も核家族化してしまっている。自分のアイデンティティを確保することができなくなると、人は名前を失ってしまう。 


自分が命をかけてやる仕事、生涯帰属する団体、今本気でほしいスキルなどは自分がどういうものに所属していてそこでは何をやると褒められ、何をやると叱られるのかという価値観の統一した集団にいないとわからなくなる。 


たとえば、ピッチャーがやりたいがどのチームにも所属したくない人が、毎日どこかの草野球チームにいってピッチャーだけやらせてもらうとする。その人はピッチャーをやる喜びがあるのだろうか。所属する団体がないと同じコトをやってもつまらなくなる。 


猫ひろしがカンボジアでもしオリンピックなどを想像してみればわかるでしょ。 


面倒だけど所属する集団がなければつまらない。そして、自分の立つ立ち位置が定まらなければ個人の個人名など弱弱しくてすぐに壊されてしまう。人はたったひとりで自分の信じる価値を維持できるほど強くない。同じ傾向の同じ方向をみている集団の中にいてお互いルールや決まり事にしばられて面倒ばかりにいらいらしながらでも、その場にいることで自分自身を確定しているとそろそろわかって欲しい。 




千と千尋の神隠しができたのもそういう時代をみていたからじゃないかとおもう。 



道州制も夫婦別姓もTPPも反原発も自衛隊ギライも、日の丸、君が代、ギライも生活保護が増えている件さえもたったひとことでカタがつきそうな気がする。 


松下圭一論は間違いです。 


「市民とは抑圧されながら生きる意味を見つけるものである。よって国家と社会と家族を解体すると市民はその権利をすべて失い、生きる意味すら見失う。」 



以上 


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【松下圭一理論概略】 

国家の統治を否定し、市民は自治体、国に対しては直接に、 
ほぼ国家単位で校正される国際機構に対しては関節に、 
それぞれ独自の政府としての「権限」を基本法にもとづいて(信託)する、 
と位置づければよい。 
これが、単一「国家法人」論にかわる、 
自治体、国、国際機構への重層「政府信託」論である。 
その上で自治体レベル・国レベル・国際レベルの三層構造を構想することで 
国家統治概念を市民自治概念に置き換える「分節主権」を主張する。 

そのためには地方自治が必要となり、 
その自治体は市民自治機構として市民によって独自に信託された政治責任を持っている。 
自治体は市民みずからによる日常的な批判と参画をめぐって 
市民参加システムを独創的に構成してその自治体立法権、自治体行政権を行使し、 
市民の創意を結集したシビル・ミニマムづいで自治体計画を策定実現しなければならない。 
そして、市民参加による 
シビル・ミニマム、自治体計画の独自策定が不可避となってきたのである。 
「もはや全国画一行政の段階は過ぎ去った」としている。 

逆な見方をすれば、地方自治だけあれば、国家国民という概念は必要なく、 
その国家そのものは市民自治の障壁でしかない。 
彼らによれば家族ですら個人の権利実現を抑圧する障壁としか考えてないのであるから、 
政策的に解体しなければならないとされているものである。 

この理論によって国家国籍を無視した在日外国人参政権付与政策や 
家族解体法が次々にでてくることになる。 

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