おはようございます。
最近、自分のマイナスの部分を認めていこうという考え方に変わってきました。
きっかけは先日の終業式の朝の出来事。
出来ない子どもを叱っていた自分の心にはそういう風に育てられないという自責の念が強くあるからだと自分で初めて気が付いた日。
子どもを責めながら、自分のマイナスの心を責めていたんだと思います。
私が自責感を募らせたその目的は、我が子に対して母の育て方を模倣するためだったと思います。
以前も書きましたが、私が20代の時に亡くなった母はある意味毒のある親。
私はある意味アダルトチルドレンだと思います。
私の母は子どもである私の承認欲求を育て、一方で私を支配していました。
子どもを支配するには私の母のようなやり方をすれば、大人になっても支配し続けられる親になれるんだと思います。
「○○ちゃんは○○が上手に出来るのに、なんであんたは出来ないの?」
→自分は頑張っているつもりだったのに、それをいわれてやる気が失せた。でも具体的に○○ちゃんという高い目標設定をされたので○○ちゃんに近づくように頑張りを強制された
「△△してくれたんだね、ありがとう。でもこれもしてくれたらもっと良かった。」
→△△をするのも大変だったのに、次も頑張れといわれて次頑張れば認めてくれるかなと思った。
「うちにはもうお金がないんだよね。どうしたら良いと思う?(本気で子どもに尋ねてくる)。」
→お金がない原因が自分にあるのかもしれないという思いを刷り込まれ、金銭的に迷惑をかけないように、家のために頑張らなきゃと思った。
「結局その大学にしたの?私が子ども嫌いなのに出来るわけがない」
→大きく否定することで子どもの気持ちを打ち砕き、私の中に子どもが嫌いという母の意見を大いに刷り込ませた
自分の経験から思う事ですが、承認欲求を高められた子どもは、周りに認められないと自分の価値が認められない大人になっていくと思っています。
別の見方をすると、子どもの承認欲求を高めていく育て方は大人が思うように子どもを支配するにはうってつけのものだと思います。
自分の体験談ですが、こういう小さい時からの育てられ方ってなかなか自分の意識で手放すことは難しいです。
私も大人になって親の育て方に疑問を抱いて、反面教師にすればよかったんですけど、
私が大人になってすぐ亡くなってしまったのでそれができませんでした。
亡くなってしまいましたから、「あんたの考え方おかしい!」とか親とぶつけあう経験ができませんでした。
母は亡くなることで、私(というか家族からしたら)まあ仏さまと言うか、責めようにも責められない存在になってしまいました。
自分の承認欲求を満たしてくれた相手が突然亡くなるっていうのは、自分が自分の存在を認めてくれた相手が突然いなくなるわけで。
私は母親が亡くなった時には「私の人生終わったな」と思いました。
これからの自分の生き方を模索するのに、やっぱり親の考え方に沿うようにと思ってしまうんですよ。
「あの時母がこう言ってくれたから。」
その生き方を否定するわけではないですが、母のやり方に対して親子でケンカをする前に相手がこの世からいなくなったんで、母が言い残した部分をいつまでも自分の承認欲求の矛先にしてしまったんですね。
母は亡くなることで母が私に伝えてきたことが私の承認欲求の永遠の矛先となってしまったわけです。
母が亡くなって17年過ぎましたが、未だアダルトチルドレンな私の心のなかにある過剰に認めてほしいという承認欲求。
承認欲求があるがゆえに沸き起こる自責の念。
無意識で踏襲してしまう子育て。
経験して思います。承認欲求を高める子育てが良くないという事。
これに気づかされたのがアドラーの勇気づけ。
まだほんの入り口にしかたっていませんが、こんな風に自分を振り返られるようになったのもアドラーを学んだからかな~。
長いつぶやきを読んでくださってありがとうございます。
今日もありのままで過ごそう。
やつゆき。