
それじゃあ礼拝の中で何をやっているの?っていうと。
説教(メッセージ)が牧師から語られるのをメインとして
賛美(ワーシップ)を歌ったり、祈ったりします。

そこらへんをベースにして、それぞれの教会で多少違うかな?
ウチの教会では礼拝の中で子供たちへの話もあるしね。

それで今日のメッセージだけど、数か所イタイところがあった。

たまにね、まるで自分だけに向けられているように感じる内容の
時があったり、あ~これはあの人に向けられてることだなって
思うようなビシッとハマることがあるわけ。
今日は2個所・・・う~ん、イタイよ~

牧師てんてー、LEOに言ってるでしょ?って感じ

エペソ人への手紙 4章25節
ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して
真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いに
それぞれのものだからです。
この個所のメッセージはね、短くまとめると・・・
私たちは日頃、嘘をつくじゃない? 特に日本人は特有の本音と建て前
とかあるし、正直に話さないほうが人間関係が円滑にいくみたいに
思ってる節もあったり、問題があるのに何の問題もないようなふりを
したりしてることがよくあるよね。
でもクリスチャン同士の間では、お互いに本音を言う事が出来る関係
でいられたらいいなって。
例えば、熱いものを触ったとき、指先が「わたし、大丈夫ですから」
って言って、「熱い」という信号を発しなかったらどうなるのか?
やけどは必要以上に酷くなり、その部分が壊死してしまったりする。
クリスチャン1人1人はキリストの体を構成する部分なの。
だから、お互いの罪や問題を認め合うような関係を築き、お互いを赦し
励まし、祈りあう関係を築いていきたいねって感じの内容。
うん、うん、最近ホントに色々なところで言われていることだよ。
ゆったり、まったり、委ねて、頼って、無理しない、弱音を吐く・・・
指先みたいに遠慮したり、我慢したりしちゃダメってことね。

それからもう一か所。
エペソ人への手紙 4章29節
悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。
ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、
聞く人に恵みを与えなさい。
日本語訳の聖書だと“悪い言葉”と書かれているけど原文では
“腐った言葉”という意味になっているんだそうで。
腐った言葉は、人を貶め、心を折り、やる気を奪ってしまうような言葉。
言っている本人も意識しているわけではないかもしれないけどね。
親切心で言ったつもりでいる批判や忠告の言葉が、実は害にしかなって
いない言葉だったりする。
自分の価値観で正しいと思ったことを、愛よりも優先させてしまった時
腐った言葉になっていることがある。
でも愛を優先して人と接するとき、言葉は人を励まし、立て上げ、
勇気と力を与える恵みの言葉となる。
こういう恵みの言葉を交し合う環境の中でこそ、人は成長し、喜んで
生きることができるのではないか?ってことだった。
メッセージを聞きながら、隣に座っているHYJILIに「そうなの?」
とか「LEOの言う事って腐ってる?」って聞くと激しく首を上下に
ブンブンしていた。

礼拝の後、牧師てんてーと話したとき、HYJILIの反応にメッサウケてたし、
親子だと難しいよね~って。
てんてーも自分の子供には腐った言葉ばかり言ってるよって反省してた。
そうなんだよね、人には励ましの言葉をかけられるのに、子供にはかなり
腐りまくってる言葉を浴びせかけてるよ。

わかっちゃいるけど・・・ってヤツだよね。
それに親子だと甘えもあるわけさ~

こいつはちゃんと分ってくれているってね。
それでそこんところも聞いてみたんだけど、やっぱり分っているらしい。
自分の親はこういうモノの言い方をする人だ~みたいなね

分るけど、でもイヤな時はイヤなんだ・・・ということだね。

うん、気を付けるお

多分、すぐに忘れると思うから、そのときはまた気づけるように言ってくれ。
ホントに人間って成長しないよな~

一生、成長し続けても足りないだろうね
