インド手仕事布の世界 by CALICO : the ART of INDIAN VILLAGE FABRICS -2ページ目

インド手仕事布の世界 by CALICO : the ART of INDIAN VILLAGE FABRICS

CALICOは、インドの村に伝わるカディ、カンタ刺繍、木版捺染、原種コットンや羊毛の織などの豊かな布世界を、現地の職人と共に創り、伝えていく活動です。

手紡ぎ糸の村のシリーズの続きです。



ベンガルの女性たちは、粘り強く、よく働きます。家族を送り出した朝10時くらいから、インドのランチタイムである2時くらいまで、手紡ぎ糸のセンターにやってきて、短期集中で働き、その後家に帰った後は、家事や夕食の支度をしています。




北の女性が働き者でないという意味ではありませんが、多くの北インドの村は、イスラム社会の影響が強いためか封建的で、働くのは男性、女性は家のなかにいるべきと考えられていることが多く、なかなか就業機会や外の世界の接点に恵まれずにいます。それはそれで(DVなど)いろんな問題があるのですが、経済的には守られているともいえます。

また、北インドに限らず、インドの多くの州では、政策(公共事業や企業誘致)などによって男性には仕事が与えられ、出稼ぎなどしながらも働ける環境が整備されていますが、それに比べると、ベンガルは、バングラデシュからの移民が多く、州政府もうまく対策できていないため、慢性的に雇用の供給が過多です。

そうした背景もあってか、男性があまり働かない、いえ、働くことができないようです。また北インドに比べると、女性が、比較的開放されていて、結構切り盛りしています。そのためか、男性は働きもせず、離婚もせず、ふらっとどこか他所の土地に行ったまま帰ってこないようなケースも多く、女性はどこかで常に自立を意識しているような気がします。

特にわたしたちが訪れた手紡ぎ糸の村は、ムスリムのコミュニティ出身の女性が多く、ヒンドゥー教の強い西ベンガル州において、一層職業機会に乏しく、経済的理由から家族が離れ離れになり、先に述べたように、旦那さんがそのまま戻ってこないケースが後を絶たないそうです。

こちらのムスリム・コミュニティ出身の彼女も、家で頼るべき人が失踪してしまい、日々手紡ぎの仕事をすることで、2人の子供を食べさせています。




特に、女児を抱えている親は、女児が年頃になると、ダウリ―という持参金を準備して、なるべく裕福な家に嫁がせないといけないという意識が強いです。こうして一生懸命稼いだお金を、子供の教育に使うのではなく、決してその子どもの幸せが保証されているわけでもないダウリ―に使う、ということには大きな疑問を感じますが・・・・。


貧しいベンガルの村においては、ダウリ―を用意できる親はむしろ幸せで、将来ダウリ―を用意できないと絶望し、家族が食べていくためには女児を売春宿に売るしかないと思う親も多いのです。事実、西ベンガルの州都コルカタにはアジア最大の売春街があり、そうした売春組織への仲介システムは村々に存在しています。


そうした生産の背景にあることをいろいろ考えると、特別な技術がなくても多くの村の女性が関われる仕事をつくること、アンバーチャルカで手紡ぎの糸をつくり続けること、そして、私たちが都市においてカディを使い、纏い続けることは、カディの風合いがいかにいいか素晴らしいか贅沢かというような、都市生活者の道楽や酔狂に付き合い消費されるだけでは決してない、私たちの日常の想像をはるかに超える尊い意味合いをもっています。





FUMIE














昨日ご紹介したアンバーチャルカ。

お読みになった方
によっては、「ガンジーチャルカじゃないなんて本当の手紡ぎじゃない。」「手紡ぎといってだましているみたいだ。」いろんな感想をお持ちでしょう。




でも手紡ぎってなんでしょう。なんのための手紡ぎであり、カディなのでしょうか。

私自身は、ガンジーが独立運動のころに、シングルチャルカ(ガンジーチャルカ)を普及させたのと同じように、現代においては、アンバーチャルカが実用性・効率性から普及されるべきと思っており、その役割を以下のように理解しています。

ひとつは、生産効率が高まることで、関わる人が食べていけるような仕組みになること。一回転でコーンが6つ~8つ作れるようになることと、手ではなく機械圧縮による押し出しで糸を撚ることにより、シングルチャルカの何倍もの効率で糸を作れるようになります。それはすなわち、出来高で支払われる彼女たちにとって、お給料が増えることを意味します。


また、均一な仕上げのために、ある一定水準の技術・技量が要求されたシングルチャルカに比べると、アンバーチャルカはだれでもが一定品質で糸を作れます。(もちろんアンバーチャルカも技術を要しますが。)それは農村での就業機会が増えることを意味します。


40カウントの太糸を紡ぐ女性。



また、私たちにとって、カディ糸を安定的に一定の基準で作れることは、生地品質の安定を意味します。このようにしてつくられたカディ糸は、緯糸だけでなく縦糸としても使うことができます。(日本に普及している手紡ぎ・手織りカディは、緯糸のみ手紡ぎでカディと呼ばれているものものが多いですが、CALICOのカディ

はほとんどのものが、縦糸も緯糸も手紡ぎです。)シングルチャルカはその姿としてもとても美しいものではありますが、それだけで上述にあるようなすべてを実現することは遠い理想になりつつあります。


しかし、今回の訪問で最も衝撃的だったのは、最近モーターを取り付けたアンバーチャルカが、村の個人企業の中で普及しだしているとのこと。それはもはや手紡ぎではないと私ですら思うのですが、関わる女性たち(糸も手回しに比べると切れにくいのですが、切れたら直すために配置されている)の収入がまた手回しの倍になることを考えると、誰もその流れを否定することはできません。ソーラーパネルをつけたソーラーチャルカというものでてきています。とてもいいことだと思います。



とうとう、出会ってしまった。電動アンバーチャルカ。

・・・でもどうやらうちではほとんど使うことのない、太糸しかできない様子。(ホッ)




ガンジーチャルカがアンバーチャルカに置き換わった変化に比べると、手回しと電動に、どれほどの違いがあるのか。悩ましいところです。


ただ、それを手紡ぎと偽って市場に出してしまうと、アンバーチャルカを導入しても尚、保たれてきた手紡ぎ・手織りカディの価値そのものが、市場での信頼を失うことになりかねないかと危惧します。

つづく

FUMIE




ー約2か月ぶりのベンガルは、すっかり春らしく、温かな陽気に包まれていました。

今回は、カディの生産パートナーと一緒に、久々にカディ用の手紡ぎ糸をつくっているベンガル北部の村(ムルシダバード近郊)まで足を運びました。


インドで一番最初に建設された駅といわれるKOLKATAのSEALDAH駅から、電車に揺られること4時間。

早朝から飛行機に乗り、KOLKATAでしっかりミーティングをしてから電車に乗り込んだからか、電車旅の前半は疲れて、爆睡。何も思い出せません。時折、食べ物や飲み物を売りにくるひとに小突かれたり、美味しそうな匂いで臭覚を刺激された気がしますが・・・


列車の定番スナック ジャラムリ。

次々と見事な手つきで、お米のパフにマサラやココナッツを入れ、〆にはマスタードオイルをサラッとかけます。


車内パトロールする小さなギャングたち。




目的地到着は夜中の11時頃。

そのままホテルに直行して泊まり、翌朝車で約1時間離れた村に向かいました。


前回訪問したのは、約2年前。そのときにたくさん写真やビデオを撮ったのですが、直後にパソコンを壊してしまい、すでに資料に取り込んでいた何枚かを除いてすべて失ってしまったのです。その悔しさもあって、今回はたくさんの生産の様子をカメラに収めてきました。 (ちなみに今もパソコンが半壊しておりますが、今回はCloudサービスがあるので大丈夫なはず。便利な世の中です。)


手紡ぎ糸をつくっている工房の様子。前回訪問時よりも、手紡ぎを担当する女性の数が増えており、こちらでは現在約300名が登録しています。



以前にもご紹介の通り、現在CALICOで作っているカディは、最もシンプルで原始的な糸紡ぎの道具タクリ(スピンドル)や、ガンジーがインド独立のシンボルとして広く普及したといわれるシングルチャルカ(俗称 ガンジーチャルカ)ではなく、10年ほど前から広まったアンバーチャルカといわれる一段機械化が進み、生産性が高まったチャルカを使って紡いだ糸を使っています。





アンバーチャルカは、ひとの手による回転を動力に、ネジで鉄のプレスの圧力を調節して糸を撚り、6本、7本、8本のコーンを一度につくれるようになっています。ひとの力が加わることで、糸に揺らぎが加わる仕掛けです。


そのため、原始的な糸紡ぎと同様に糸も切れやすく、切れては直し、その直した箇所に味わい深いネップができるようになっています。


写真は切れた糸を撚ってつなげている様子。


次回は、そんなアンバーチャルカを使う意義について触れたいと思います。

つづく


FUMIE