第4章 雇われ助っ人

第2章第3章 を受けて、「自由市場」に関して考察しています。

「自由市場」を擁護する意見は大きく分けて二つあります。一つは「人びとに自発的な取引をさせるのは、彼らの自由を尊重していること」になるという自由至上主義的な意見、もう一つは損をする人がいないので、「自由市場は全体の幸福を促進する」という功利主義的な意見です。
しかし、市場懐疑論者が言うには、「市場の選択はつねに見た目ほど自由だとはかぎらない」し、「一部の物品や社会的な慣習は、金銭で売買されると腐敗したり悪化したりする」のです。
これはどういう事なのかを、「徴兵制の可否」と「代理母の是非」という二つの例で考察してみます。すると、前者についてはカントとロールズの道徳や政治哲学後者は市民の義務の基本と範囲やアリストテレスの正義論の核心が、考察の足がかりとなりそうです。


1章から3章までは、正義について語るための基本ツールとしての知識が書かれてあったんだなと改めて実感しました。いわば、ウォーミングアップだったようです。個人的には、それでもあっぷあっぷしている感がありますが。
『街場のメディア論』でも書かれてましたが、今の世の中は基本的に「自由市場」がもっとも優れたシステムであるという考え方が一般的です。
それに対して警鐘を鳴らす考え方を、今度は結果からではなく、理論から考えてみるということになりそうです。細かい事例を並べながら、理論の穴を詰めるという形で。

第3章 私は私のものか?

三つのアプローチの一つ「自由」について、自由至上主義の考察です。

自由至上主義者は近代国家が制定する法律の中でも、次の三つのタイプの物を拒否します。
①父性温情主義:自傷行為を行う者を保護すること。
②道徳的法律:法的強制力を用いて多数派の持つ美徳の概念を奨励したり道徳的信条を表明したりすること。
③所得や富の再配分:貧しい人を助けることをある人々に要求すること。
なぜなら、この三つは人が自由にふるまう権利を侵害しているからです。
自由至上主義の考え方は決まったポジションはありません。しかし、福祉国家反対論以前から存在していました。
著名な自由至上主義者ノージック「契約を履行させることおよび、暴力、盗み、詐欺から国民を守ることに権限を限定された最小国家だけが、正当な存在である。」と主張しています。自由は規律を無意味にしてしまうし、国家が介入することで個人の権利を侵害してしまうからです。個人の権利を侵害するということは、侵害した個人の意思とは無関係に何かを決定すること、つまり侵害した個人の一部を所有することであると。
もちろん不当な契約によって利益を得た場合は、不公正の是正のために財の徴収が可能となります。契約の当不当は判断しにくいですが。
本書では、さらにこの考え方を基に「臓器移植市場の是非」、「幇助自殺の是非」について考察しています。


自由に関する考え方は、憲法関連などでしょっちゅう話題になる問題ですので、憲法解釈に関してちょっと考えてみました。
今日の日本国憲法の解釈は、憲法はどんな自由も認めてはいますが、それは「公共の福祉」により制限されるというのが一般的です。しかし、その解釈は自由至上主義の考え方に照らし合わせれば、それは間違いだということになるわけです。それでも、私は今日日の解釈で良いのではないかと思うんですが。
自由至上主義はとても論理的に見えます。例えどんな究極的な形であれ、自由ということの定義がはっきりしているからです。
そして、自由至上主義者が権利にこだわるのは「人の意思と行動が強い結びつきを持っている」という暗黙の了解があるからだと私は思います。
それに対して、憲法解釈は「人の意思」と「行動」を引き離して考えます。そこに絡むのが「公共の福祉」です。
「人の意思」のままに「行動」を認めていれば、権利のぶつかり合い状態になります。そして、強い者の独擅場になり、ひいては弱い者の権利が封殺されてしまいます。
そのような状態を国家は認めることが出来ません。全ての国民に対する人権保障は国家の大切な役割の一つだからです。
そこで、現在の憲法解釈は「権利」を「精神的自由権」と「経済的自由権」に分け、優先順位をつけることで決着をつけました。精神的自由権は経済的自由権よりも「人の意思」に近いので、優先して保護されるべきだとしました。そうすることで社会全体の利益、つまり「公共の福祉」が実現できるというわけです。
第2章 最大幸福原理

先に述べた 三つのアプローチの一つ「幸福」に重点を置く「功利主義」を考察しています。

まず、功利主義の祖であるベンサム最大多数の最大幸福を唱えました。それに対し、「個人の権利を尊重していない」「そもそも効用とは測ることができるのか」という反論が持ち上がります。
この反論の前者に対して、ミル「長期的に考えれば権利は尊重されるべき」という擁護論を展開します。しかし、この考え方では権利は偶然の産物となるし、個人対個人での権利侵害の不正さが曖昧になってしまう。これに対してミルは、「権利は自己実現のために尊重されるべき」と説きました。
ここで、ベンサムの功利主義のポイントは「最大幸福が唯一の足場であること」です。つまり、ミルはベンサムを否定していました。ベンサムに対する反論の後者に対する反応にもそれが表れています。
ミルは「効用は測ることが出来る。」としていますが、それは量や大きさだけでなく質も評価でき、質の評価は人間の尊厳から導かれるとしています。これによりミルは、功利主義をベンサムの論に対する反論からは救えました。しかし、そのために効用とは無関係な理念を功利主義に引き込まざるを得なかったのです。

教養で知っている程度の話ではありますが、とても分かりやすかったです。
ミルがベンサムを否定したという論点は初めて目にしたので、ちょっとびっくりしましたが。
それにしても、やはり「幸福」という観点からのみで、「正義」について語ることは困難であるようです。「他人の不幸は蜜の味」というコトワザもありますしね。
私はこの結果は当然だと思います。「幸福」というものは、ほとんど感情に近いものではないかと思うからです。感情を論理の中に組み込むのってとても難しいですよね。どうしてそう思ったのかきちんと説明できたとしても、論理的だとまでは言えない場合って、意外とあります。
そういう論理的に不安定であるものだけを土台にして、漠然としたもの説明するために、論理的な話をすること自体がオカシイと思います。絵に描いた餅というか、机上の空論、うまくいったとように見えても危なっかしくて仕方がないものしか出来上がらないではないかと思うのです。
私は功利主義の考え方全てを否定するわけではありません。いくつかの場面では補助的に使うことで、「道徳」に対する自分の考えを論理的に説明できる考え方だからです。
しかし、それはあくまでも「補助的に」使うのであって、「全面的に」功利主義に頼り切って「道徳」を説明することはほぼ不可能ではないかと思うのです。