第7章 アファーマティブアクションをめぐる論争

先の章 で語られた「分配の正義を道徳的功績から完全に切り離せるか」について、アファーマティブアクション(積極的差別是正措置)を例に、検討されています。

社会における影響を考えると、アファーマティブアクションは正しいように思える。実際、補償論はともかく、多様性の促進やテストの差を補正することはとても重要な目的であると認められている。
それではなぜ、アファーマティブアクションに関する訴訟が絶えないのか。それはアファーマティブアクションによって、自らの能力や徳が正当に評価されないと受け取られがちであるからなのだそうだ。アファーマティブアクションは道徳的功績ではないし、能力や徳に報いるものでもない。さらに、偏見を含むこともない。
しかしながら、分配の正義のよりどころを道徳的功績に求めないという考え方は、人々を不安にさせる
成功は徳への見返りであるという思い込みが根強いので正義が名誉と関わっているという考え方が一般的であるし、組織が自らの使命を定義して初めて評価すべき能力が決まるという考え方は混乱を招くからだ。
このように、正義をめぐる論争を、名誉や徳や善の意味をめぐる論争に結び付けるのは、賛同を得る見込みがないことのように思われる。しかし、現代のほとんどの政治哲学はそれを為そうとしている。カントやロールズは中立的な立場から、それを為そうとする大胆な試みを提示しているのだ。


少なくともロールズの思想の章よりはだいぶ楽でした。ロールズの思想を具体例を用いて整理し直した形をとっているのも大きな理由だと思います。
今の日本において、アファーマティブアクションは馴染みがありません。しかし今後、移民を受け入れるなど、政府の方針で台頭してくる考え方になるかもしれないと思うと、引き締まる思いがしました。
自分があと少しで合格ラインにいたのに、アファーマティブアクションのせいで、不合格となるとものすごくつらいことだとは思います。でも確かに、マクロ的な観点から考えると、仕方ないことなんですよねぇ。それもひっくるめて、当事者となった時に納得できるかは、正直に言うと自信がありません。けれど、考えることで自分の中で折り合いがつけられるといいなぁとは思います。実力が足りなかったんだとか、運が悪かったんだとか、そういうレベルの話ではない部分で。難しいことだとは思うんですけどねぇ。
第6章 平等をめぐる議論

先の章 でカントが説明していなかった「仮想上の契約」についての答えを探し続けたジョン・ロールズの思想について考察しています。

カントによると「国民全体が同意しうるものとなら、その法は公正」であるが、ロールズによると「人々が同意しうるもの」とは、「基本的自由をすべての人に平等に与え」、「社会で最も不遇な立場にある人々の利益になるような社会的・経済的不平等のみを認める」ものであるらしい。
なぜそのような契約が道徳的仕事を果たせるのか。
契約の道徳的限界二つある。一つは同意したという事実だけでは、同意の公平性が保障されないということ。もう一つは、同意を得ただけでは道徳的拘束力が発生しないということだ。この契約のもつ道徳的な限界は「自律」と「互恵性」という二つの理念に由来する。通常の契約であれば、これらの理念は様々な事情により実現されにくい。しかし、ロールズの説く「仮説的同意」とは、人々が自分の個別具体的な事情を把握していない「無知のベールをかぶった状態」でなされるものに等しい。よって通常の契約よりも、個人同士が対等であり、自律と互恵性の理念が徹底される。したがって、道徳的力が増しているのだ。
では、「仮説的同意」によって、どのような平等が約束されるべきなのか
ロールズが言うには、実力主義は結果が道徳的観点からすると恣意的であるので平等ではない。もっとも平等であるのは、「格差原理」を用いた所得格差を是認することだ。つまり、天賦の才の持ち主がその才能により市場で生み出した報酬を共同体全体の物であるとするのである。ただし、認められるべき所得格差は、最も不利な立場にある人々の状況を改善するためのものだけで、それは努力ではなく貢献度によって決められるべきである。
また、ロールズは道徳的功績と、彼が「正当な期待を持つ権利」とを区別している。他者よりも競争を有利に進められる才能をもっていることは完全には自分の手柄ではないからだ。公正か公正でないかは組織がこうした事実をどのように扱うかによって決まるのである。


ロールズに関しては、完全に予備知識がなかったので、かなり立ち往生しました。
「格差原理」が一体どのようなものなのか、それによって「所得格差」がどのようなものと定義されるのかという部分でかなりまごつきました。「所得格差」がゲシュタルト崩壊しそうな感じでした。我ながら、ポンコツロースペック腐れ脳みそが本当に嫌になりました。
要するに、「この時代に生まれ才能が開花したのは偶然であり、それによりもたらされた利益の一部は共同体に還元されるべき」ということだったんですがね。
真面目に読もうとすると、疑問を持った時点で持っている情報だけで解決しようとする悪い癖があるみたいです。そのおかげで、ロールズの正義論の後半部分はかなり楽に読めたような気がしますが。
とりあえず、わからない部分は置いといて、しっかり読み切ってから思考を整理するという考え方にしないと、いろいろとまずくなりそうです。
最近、息抜きにちょこっと拝見したブログ、『お嫁様は宇宙人』 に激ハマり中。
カンタンに言うと、思考回路が理解できんレベルの自己中な「お嫁様」が嫁いで来ちゃったお姑さんの苦労話のブログです。「お嫁様がなぜ思考回路がわけわからん子に育ってしまったのか」それを考える内に「ウルトラの母になろう!」と決意され、お嫁様を生温かく見守りつつ、「今の子育ての在り方」に猛烈なツッコミを入れていらっしゃいます。今の世の中を「楽でいーじゃん」「ミンナやってんよ」「結局自分が一番カワイイ」と我が物顔でのし歩く人々に対する、痛快なツッコミは本当にスカッとします。

そして、このブログを書かれている御方が本当に凄い
まず、「何年前の昼メロだよ?!」と言いたくなるような壮絶な嫁いびりを耐え抜いたこと。さらに、いびった姑がボケてしまうんだけど介護して看取ったこと。そして、嫁いびりに片棒を担いでしまうような超ド級マザコン旦那様を見捨てずに添い遂げるつもりであること。また、そんな過酷な環境にいても男の子二人を立派に育て上げたこと。
本当はまだまだあるのですが、特にでかい衝撃を受けたのはこの四つです。
とにかく、この御方は芯がある方なんですよ。「ダメなものはダメ。イイものはイイ。最後に笑うのは自分。」と揺らぎやすい世の中で筋を通す生き方をなさっている方なのです。本当に尊敬できます。素敵過ぎます。カッコいいです。

私にはまだ、子供はいません。いずれ産むことにはなるでしょうけど、それも5年以上後の事だろうと思います。でも、私の同級生の中には、すでに小学校に上がっているような子供を持つ親になっている子がいます。なので、子育てと聞くと何かと興味を持ってしまいます。
けれど、最近は「子供の個性を伸ばすために叱ってはいけません」だの「叩いたら虐待です」だの、いろいろとルールというか暗黙の了解が出来上がっていますよね。私はそれが「なんかシンドイかも」と思っていたんです。
自分自身が「褒められることなく、叱ってどやされて育った子」なので、「ある程度褒めて伸ばす」ということの大切さは身をもって知っているわけなんですが、叱ることに関してはどの程度が「普通」なのかわからないんですよ。機嫌が悪いと人格を否定されるようなこともバシバシ言われて、それが躾だと育ったものですから。
だから、叱り方についてしっかり言ってくれる人がいると、なんだかちょっとホッとします

でも、こうやってしっかり言ってくれる人がいても、周りの人たちに「何それー」「変でしょー」って言われて凹んだり、不安になったりするだろうと思うんですよね。
子供の個性は容認しようとノタマウ割に、親の個性的な育て方に関しては横槍入れるってスタンスは納得いかないと思います。けど、私自身が他人の影響を受けやすい人間であるので。
そうした人に向けた「大丈夫がんばれ!」というかずぷーさん(ブログ主様)のメッセージを読むと、ちょっと元気が出ます。
まだ私に子供いるわけじゃないんだけどね。