第9章 たがいに負うものは何か?

「国家が謝罪するときに必要なものとは何か。」を通して、正義がどうあるべきかについて考察し、第4章で示された市民の責任と義務についての布石を示しています。

国家が謝罪する動機はどこにあるのだろうか。
これに対して道徳的個人主義の立場をとると、どこにもないということになる。道徳的責任は、普遍的なもの以外は、個人が個人に対して負うものであるという考え方だ。それによると、国家は道徳的に中立であるべきであると言える。
しかし、それは完璧な論理ではない。なぜなら、われわれが一般に認め、重んじてさえいる一連の道徳的・政治的責務の意義が分からなくなるからだ。
われわれは共同体の一員である。その事実は我々のアイデンティティであると同時に、個別的な道徳的要求を否応なしに発生させる。同意うんぬん以前に、我々は同胞として、互いに責任を負っているのだ。時にそれは、選択という局面において重大な影響を及ぼす。その連帯感は、必ずしも内向きの傾向というわけではない。場合によって、連帯感は自国の国民や政府を動機となりうる。このような考え方を共同体主義という。
自由至上主義と共同体主義は、自分を拘束する責務は自分で決められないこと、正義が中立的でないことの二点において意を異にする。
正義と権利についての問題に善良な生活についての構想を持ち出すことは魅力的ではないかもしれない。しかし、今の多元的社会において、人々の考える最善の生き方には多くの意見がある。そして、その価値観がぶつかる時、賛否両論ある道徳的宗教的問題を取り上げずに論じることは不可能なのである。


正直、イジワルな構成だなぁと思いました。今まで様々な思想家の思想を解説したのは、共同体主義の正当性を説明したかったためなんだなぁと。あと二章分しかないのに。最初にある程度というか、もうちょっと深く、問題提起してくれていれば、読みやすかったんだけどなぁ。ぼやいちゃっても仕方ないんですけどね。
第8章の感想を書いた時、「カントとロールズはアリストテレスに近いのでは?」と書きましたが、あれってまるっきり見当違いだったみたいです ね……。アリストテレスの論理をカントとロールズは否定していたんです。アリストテレスの言う善良な生活には「自由」がないから。カントのところで「自律=道徳的」とあったので、勘違いしてました。カントの論理だと道徳的な結果に至る道に遊びがありますが、アリストテレスの場合は遊びがないそれがカントにとっては「人間を尊重していない」ということになるようです。
さて、共同体主義についてですが、私にとっては比較的身近な考え方でした。学生時代、よく先生方に「あなたたち一人一人の行動によって、この学校のイメージが決まるのですから、校外でも恥ずかしい行動はとらないように。」とお説教されたのを思い出しました。これもある種の共同体主義的な考え方だと思います。スケールは非常に小さいので、宗教的な食い違いや道徳的価値観の齟齬から反論する人はいませんでしたけど。だから、これを国家という単位で考えるのは、なんだかイマイチ、ピンとこないんです。しかも政治哲学という立場。ややもすると思想の押し付けになってしまうし、国家権力の持つ強い力とどうやって折り合いをつけていくのか、とても気になります。
小さい頃から「大人」として扱われることが多かった。
母は「おねえちゃんだから」と言われて育ったことが苦痛だったと語っていた。確かにいつでも「おねえちゃん」でいなきゃいけないのは辛いことだったと思う。でも、「おねえちゃん」が苦しいのと同じように、「大人」として扱われるのも苦しい。年相応よりも大人びていなきゃいけないという意味では一緒だから。

大人として扱われることに応えなきゃいけないと必死で勉強した、難しい本もいっぱい読んだ。今では読んだ内容をほとんど忘れてしまったけど。運動は月並みだったし、子供らしい遊びなんかもほとんどやらなかった。そんな子供だったから、子供たちの間では浮いていたし、いじめられることさえあった。だから余計に本と勉強にのめり込んだ。
それでも、母も父も私が「大人」であることを誇りに思っていると子供心に理解していたから、当時はそれでいいんだとずっと思っていた。そのことで両親を恨めしく思ったことは無い。その経験があって今の私があると思えるから。

「大人」として扱われ、年齢もだんだん大人になってくるにつれて、私は周りとの齟齬を感じるようになった。漫画が読みたくなった、ゲームがやりたくなった、自由にテレビだって見たかった。
けれど、父はそれを許さなかった
毎月買ってもらっていた月刊誌は買ってもらえなくなり、ゲームはすべて取り上げられた。テレビは食事時の30分だけと決められた。漫画を勝手に買ってくれば、私が外出しているとき部屋の中をあさって勝手に処分された。門限は親元を離れるまでずっと5時のままだった。成績が下がれば手をあげて叱られ、義務教育中であっても学校を辞めろとさえ言われた。

その頃になると、いい成績をとって当然で、褒められることもあまりなかった。私はいよいよしんどくなった。そしていろんなことを諦めるようになった。
私の意見は求められないから言っても無駄だ。わかり合いたいと思っても、どうせわかってもらえない。私は何も知らないから、友達がいなくても仕方ない。このまま月並みに学校を出て、就職して、無機質に生きていくだけなんだろうなと思った。
旦那様と出会うまではずっとそう思って生活していた。あの頃、旦那様と何の接点もなかったとしたら、たぶん私はいつか心を病んでしまっただろうと思う。

父が私をここまで追い詰めたということを、父自身はきっと知らない。今では、父は父なりに私を大切にしてくれたんだろうと思う。相変わらず怖くてたまらないけれど。
でも、その当時はそうは思えなかった。父の放った一言を全部文字通りに受け止めて、落ち込み続けていたから。
今では当時の父の言葉を、「誰かのためを思っていても、伝わるような方法をとらなければ、最悪の結果になる」という反面教師として受け止めている。

今は心のバランスがちょうどいい感じだと自分では思っているけれど、きっとまた揺らぐ時が来るんだろう。今度は完全に「大人」だから、葛藤も必要ないと思って、またすんなり汚れてしまうかもしれない。そう思うと、ちょっと悲しくなる。
少なくとも今の私は、全てのみ込んで諦めてしまうことが大人になることと同じではないと信じているから。
第8章 誰が何に値するか?

目的論から始まる正義論の本家本元、アリストテレスの正義論を考証します。

アリストテレスにとって「正義」とは、配分の妥当性を指す。よって必然的に、アリストテレスの正義論は目的論に端を発するし、名誉についての考証が重大なポイントとなる。
確かに目的論的論法は近代以降の科学の世界では用いられなくなってきたが、社会制度と政治慣行を考える際には現代においても用いられている。また、正義と権利をめぐる議論は、社会的制度の目的をめぐる議論であるし、報いるべき美徳に関する概念の対立であることが多い。
ここで、アリストテレスの考える政治の正義について考えてみよう。 アリストテレスの考える政治の目的とは「善き市民を育成し、善き人格を養成すること」である。したがって、 政治の権威は「優れた市民道徳を持ち、共通善について熟慮するのに最もたけた人たち」に対して分配されるべきである。つまり、善き市民のために善き市民に対して政治権威をあたえるのである。もっと踏み込んだまとめをすると、善良な生活を送るには政治への参加が不可欠だということだ。
なぜ、そうなるのか。それは人間の本質である道徳性が他者との関わりの中でしか磨かれないものだからである。道徳的であるためには、道徳的な行動がまず大切であるし、道徳的とはどういうことが議論する必要もある。それは政治に参加して初めて出来ることなのだ。つまり、アリストテレスにとって政治学とは、人間の本質の表現であり、人間の能力を発揮する機会であり、善良な生活に欠かせない要素ということである。
では、アリストテレスは人間が市民として扱われることのない奴隷制に対してどのような見解を持っていたのか。現代では強制を伴うため忌避されている奴隷制であるが、アリストテレスはその必要性と合理性をこう説明している。「市民が政治に参加するために必要な時間を確保するために、奴隷になるべく生まれたものが奴隷として働いている。」つまり、アリストテレスの論を応用すれば、その人の本質を無視した労働は奴隷制と同じく不正なのである。


正義について考えるとき、何が何のためにどうあるべきなのかを考えることは基本だと思っていました。しかし、それは案外どこでも通じる考え方ではなくて、形而上学独特の手法なのだなということを再確認できました。
「正義とは、人によって考え方が違うという」ことが今や普通のこととして受け入れられていますが、「なぜ考え方が食い違うのか」を様々な要素に分解して考察したり、優先順位をつけたりすることで、問題の要が見えてきます。古典的な手法ではありますが、形のないモノについての議論は「まずそれが何であるのか」というところから始まるわけです。さらにその要素をもう一度組み立て直してみると思いもよらぬ発見があったりするところが、形而上学の面白いところかもしれません。
カントについての章を読んだとき、とても革命的だと思いました。けれど、この章を読み終わってみれば、案外アリストテレスの言っていることを普遍化するべく知恵を絞ったという感じだったんですね。斬新ではあるけれど、完全オリジナルではないところにはなんとなく驚きました。新しい言葉をどんどんつくって自分の独特の世界を築き上げた思想家というイメージでしたが、なんだかちょっとだけ親近感がわきました。