メールは「Re:」で返信する?タイトルをつけ直す? ブログネタ:メールは「Re:」で返信する?タイトルをつけ直す? 参加中

どちらかと言えば、つけ直す派です。ただし、話題がわかるように一番最初に来たメールへの返信は「Re:」のまんま送ってます。
あとから見てわかりやすいし、ただでさえズボラなのでちょっとしたことくらいきちんとしておきたいという欲があるというか。なんか主観的な理由ばかりの回答になってしまいましたね。
でも、旦那様相手のメールは高確率で「Re:」で返信してますよ
旦那様相手なら気張らなくていいこともありますが、旦那様相手だと題名が「Re:Re:Re:……」ってならないので。
ただ、一番大きな理由は他愛もない話が主なのでメールを区別しなくてもいいからでしょうか。もちろん、重要な連絡には題名を変えて送るようにしています。自分からは。
御察しの通り、ウチの旦那様はいつでも題名に手を加えることなく送ってきます。それも題名を変えない理由の一つですね。こちらがいちいち題名を変えるのはウザいと思われているかもしれないとか、ちょっと考えてしまうんです。相手には相手のやり方があるというのはわかるんですけど、あまりにも長くそういう態度をとられると、ビクビクしちゃうんですよね。小心者なので。

これは勝間和代さんの本で読んだことだと記憶しているんですが、「私たちは皆相手にしてこう扱ってほしいと思うように相手を扱っている」のだそうです。
その考え方から言うと、メールの題名を編集しない人は、相手から「Re:」のついたメールが来ても、少なくとも気にしてはいないということになりますよね。だったら、重要なメール以外はイイじゃないかと思ってしまうんです。
逆に、メールの題名にいちいちセンスの光る小ネタを挟んでくる人への返信はちょっと緊張しますし、頭を使いますね。やり取り自体がワクワクして楽しいから、プレッシャーにはなってないんですけどね。それでもやはり、おもしろいことを思いつかなかった時は少し自分に不甲斐なさと物足りなさを感じてしまいます。
当然のことですが、メールの題名は本文よりも容量がありません。
限られた容量の中で、本文の中身をより面白く感じさせるにはどうすればいいのか。こういうことを感じながらメールを打っていると、やっぱりだらだらした文章は打てなくなります。私の場合は、本文を引き立てる題名を考えるには、しっかりした内容の本文を書かないことには始まりませんから。小ネタをちりばめても気が付いてもらえないかもしれないと悲しいですから、相手の持っている知識もある程度推測しながら書かないといけませんし。

考えてみれば、昔から日本人は限られた字数の中で様々な表現方法を生み出してきました。和歌や俳句や川柳なんか、その好例ですよね。連歌なんてとても芸術的だと思います。
それらと比べれば、メールはほんの最近生まれて、多くの人に親しまれているコミュニケーションツールですが、あまり短い中に想像力を掻き立てるようなスパイスが感じられません。それはおそらく、多くの人にとって身近でお手軽だからだろうと思います。多少の食い違いがあってもすぐに訂正できるんですよね。とくにケータイのメールはリアルタイムで何通かやり取りするのが普通ですから。

そんな中、言葉遊びをしてみるという意味でも、メールの題名の活用要素ってあると思うんです。言葉のやり取りはセンスがなくても出来ますけど、センスを磨くことで「おもしろい人だ」と思ってもらえることは自分にとって、きっといいことのはずですから。
まるっと読み終えてみての感想です。

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学/マイケル・サンデル
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とても勉強になりました。
政治哲学の分野の本でしたが、法律的な部分もありましたし、根っこは人文科学ですからね。どの分野の知識をどのようにすれば活かせるのか、考え直してみるいい機会になりました。知識の面でも、カントの論理を学び直す機会でしたし、ロールズの部分は特に歯ごたえがありました。共同体主義に関してもまともに勉強したことがなかったので、参考になりました。
まだ今一つ理解が足りない部分もあるのですが、繰り返し読んだり、共同体主義に関する本を読んだりして詰めていこうと思います。

結局のところは、当たり前だと思っている価値観、それに関して改めて問い直して論理的に考えてみれば、皆で仲よく暮らせる方法が見つかるかもよって話でした。ものすごく平たく言うと。
「自分の頭で考える」というのはとても難しいことです。私たちは与えられた価値観に物事を当てはめてるという様式で考えがちですから。本当にそう思っているならいいんですけど、その価値観にどっぷりつかってしまうと少し問題です。それというのも、その価値観で説明することにこだわり過ぎるあまり、自分の考えを正しく伝えられなくなってしまうかもしれませんから。場合によっては、自分の考えを捻じ曲げてしまうことになりますし。
ただそれでも、新しく見方を生み出すというわけじゃなくて、「私たちが普段思っていることを明確に言葉にしてみること」、そして「それを論理的に説明してみること」、さらに「話し合ってみること」をやってみようという話なので、頑張れば上手くいくのではないかなと思います。確かに自分の思いを口にできるのは自分しかいないけれど、ルールを作るのは一人じゃないから。「三人寄れば文殊の知恵」と言いますし、一人で煮詰めてしまうよりはきっといいものが出来上がることでしょう。

しかし、共同体主義のいう所の、共同体ってそれに属するというアイデンティティによって道徳観、連帯感によって義務感が生じるわけですが、「共同体がどの単位において発生するのか」がちょっとよくわかりませんでした。移民を例にとって愛国心について語る部分とか、なんとなく置いてけぼりになってる感じで、わかりにくかったです。制度の正当性について語る時、その目的がまず解明されなければならないように、共同体主義と言われればどの範囲が政治的に「共同体」と認められるのかも、わかってなきゃいけないと思うんですけどね。
まだまだ勉強不足ってことなんだろうなぁ。
第10章 正義と共通善

正義をめぐる論争によって、否応なく巻き込まれる道徳をめぐる議論はどう展開されるべきか。公と道徳の関係について考察しています。

政治方針と宗教の関わりの否定は、1960年のジョン・F・ケネディの演説に始まった。それから20年近く共和党と民主党、両党ともに政府と道徳の関わりを否定し続けた。政府はあくまでも道徳的にも宗教的にも中立であるべきという立場を貫いた。1980年代に入ってからは、コミュニティとの連帯を支持し、道徳や宗教が公的場で議論されるべきとする考え方が台頭してくる。長らくその声は無視され続けていたのだが、バラク・オバマ氏の演説によって、本格的に認められるに至った。妊娠中絶やES細胞、同性婚などの現在議論されている問題の具体例をみても、その本質的問題は宗教や道徳に絡んでくるものが数多くあるのだ。
正義に関する三つのアプローチのうち、幸福にも自由にも欠陥がある。美徳こそが、その欠陥を補完できるアプローチだと思われる。確かに、多元的社会に生きるいま、道徳や宗教の完全一致は難しい。しかし、相互的尊重に基づいた政治を思なうことは可能だと思う。道徳的不一致に対する公的関与が活発化すれば、それから回避することよりも、確かな尊敬が生まれるはずである。


前半は共同体主義が台頭してきて来るまでの政治哲学の歴史、中間が具体例を伴っての自由至上主義の欠点の洗い出し、後半は共同体主義がどのようにして政治に活かされるべきかについて論じてありました。
ここでは共同体主義のいいところしか挙げられておらず、共同体主義の持つ欠点に関しての反論に対する擁護の意見が述べられていないことにちょっと疑問を感じました。共同体主義がいかにリベラル派より問題の核に立ち向かえるのかということは諄いくらいに説明していただいたんですがね。今まではすぐに反論、それに対する議論のあれこれをあげていただいていたので、なんだかそこが引っ掛かったんですよね。具体的な突っ込みどころは今の段階ではちょっと思いつきませんが、上手くいいところばかりに目を向けさせられているような気がしてならないというか。
結局のところ、「正義とは何かなんて一元的な答えが見つかるわけではない」というのは、すで冒頭で出ていましたけれど、そういうことなんですよね。大切なのは、まず知ろうとすること、そして知ること、さらに考えること、最後にそれを話し合うこと、なんだと思いました。一元的な答えが出ないなら、相手を尊重して落とし所を探るべきなんです。逃げるんじゃなくて。逃げることは解決にはならず、むしろ不信感を煽るのみなのだと著者は語っています。
共同体主義というか、「コミュニティごとに連帯感を持って」というのは何だかまだ腑に落ちない部分がありますが、積極的に考えて話し合うことが大切であるという点は全面的に同意です。