第14章に「二倍速の共犯者」というのがあります。グールドの熱情ソナタ(ベートーヴェン)の第1楽章のテンポがちょうどゼルキン(ルドルフ)のそれの倍の遅さで(メトロノーム速度では半分の数値)あっとことを指しています。ゼルキンの録音はいつのものかは不明です。
この章の主役は、グールドとグールドのレコードプロデューサー、アンドルー・カズディンであります。彼らが共犯であれば、グールドをも非難すべきですが、ここでは徹底してカズディンを非難しています。それも相当悪意に満ちたものです。
「彼が弾く演奏曲目もうち、幾つかは私のよく知らない曲だった。ただ、そのために却って自分がグールドにとっては願っててもないプロデューサーなのではあるまいかと思えることも一度ならずあった。というのは、そうした曲の場合、私はその作品がどのように演奏されるかべきかという問題に対して、およそ何の先入観も持たずに録音セッションに臨んだからである」(カズディンの著作グレン・グールド アット・ワークより)
これに対して青柳さんは「固定観念を持たないのはよいことかもしれない。しかし、曲を知らないまま録音に望むプロデューサーがどこにいるだろうか?」
比較して一目瞭然ですね、「先入観」を「固定観念」とわざと置き換え、「よく知らない曲」を「曲を知らないまま」とこれまた自分の文脈に沿うように置き換えています。これを悪意といわずして何といいましょうか。
まだあります。
カズディンが絶対音感がないことを非難するのですが、「グールドが録音セッションの途中で『嬰ヘ短調の部分からもう一度やり直す』と言ったとしても、カズディンは『その曲を聴いたことは覚えていても、嬰ヘ短調の部分があったかどうかまるで覚えていない』ので、その場合を特定するために楽譜を必死でめくって目で分析しなければならない」(カズディンの著作グレン・グールド アット・ワークより)
「とうことは、カズディンにはミスタッチもわからず、テキスト(calaf注楽譜)とグールドの演奏の違いもわからず、まったくチェック機能がなかったということになるのだろうか?」
もう、まったくとんでもない「いいがかり」であります。何のためにこうまで共犯者カズディンを貶めるのでしょうか。
一般的な話ですが、録音は演奏家とプロデューサーの合作ともいわれることもあります。一番有名なのが、EMIのプロデューサーウォルター・レッグでしょう。彼は自前のオーケストラを持ち(フィルハーモニアオーケストラ)シュワルッツコップのヴォイストレーニングをしたほどです。ここで、合作とは、プロデューサーが、単に演奏家のミス。思い違いを指摘するだけでなく、演奏を録音作品にするに際して大きな影響力を発揮したということを指しております。
このような部分だけこの本を評価したくはないのですが、グールドが録音プロデューサーに求める資質とはどのようなものだったか、恐らく青柳さんは知らなかったか、知っていても敢えて自分の主張のために、無視したに違いありません。このグールドの発言は有名ですので。ご存知の方も多いと思います。出典は思い出せませんが、「プロデューサーのいかなる音楽的資質も私には必要ない」だったと思います。その意味では、グールドは自分の録音にプロデューサーの影響を一切認めなかった人でした。またそれができた幸せな演奏家だったのです。
ちょうどこの本を読み終えた時、久しぶりにグールドの新譜はないかとHMVを検索しておりましたら、ありました。9月20日の発売で予約受注を募っています。カナダCBCで放送したテレビ番組の全集DVDです。グールドの死後、LD(レーザーディスク)で発売されましたが、LDは全集ではありませんでした。
「未来のピアニスト グレン・グールド」から得たものは、このCBCの全集だったかもしれません。少なくともこの本を読まなければグールドのリリースなど調べることはなかったのですから。