「人生」めんどくせ~(42)
★今年の5月安倍元首相の念願であった、憲法改正を目指す集会に
メデイアが潜入しその実態を映像に捉えていた。
正面には中曽根氏と安倍氏の顔写真。来賓には自・公・維新・国民の首脳が顔を揃えていた。その会場ではっきりしたのは、いまだに統一教会の代表者など、動員がかけられ出席している。そして会場の設営まで関わっていた。岸田「統一教会との関係は絶つ」この男のウソは本当に罪深い。どこまで国民をこけにするのか。
◆聖徳太子の生い立ち
太子のもとの名は厩戸皇子といい「元興寺縁起」にひく、塔露盤銘にも「有麻移刀等(うまやど)・刀弥々乃弥己等(とみのみこと)」と書いている。
○太子はまた豊聰耳(とよとみみ)とも、法大王(のりのおおきみ)などともいわれた。
▲用明は即位したものの、すぐに病床の人となった。
皇太子には押坂彦人大兄皇子が立ったようである。
しかし朝廷の内紛は用明の病をよそに深刻化していた。遂に武力による戦闘にまで発展した。
○蘇我氏は天皇家の外戚として安定した立場にあった。
物部守屋は武力によって大勢を挽回しようとはかったからである。
守屋は河内の阿都(あと)の別業(なりどころ)に入り、中臣勝海連も連合した。
○用明は即位の翌年四月に不幸な生涯を終えた。
翌月守屋は、穴穂部皇子の即位を実現しようとはかり、さらに武備をかためた。
○一方馬子は六月になって、豊御食炊屋姫に詔をださせ、佐伯連丹経手(にうて)らに銘じて穴穂部皇子の宮を襲わせた。皇子は楼に上がって隠れたが、突き落とされさらに遁れようとしたが殺害された。