no,2562 飛鳥の朝廷(その83) | 古代史のページ福さん

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爆  笑爆  笑 「人生」めんどくせ~(42)  ショボーンショボーン

★今年の5月安倍元首相の念願であった、憲法改正を目指す集会に

メデイアが潜入しその実態を映像に捉えていた。

正面には中曽根氏と安倍氏の顔写真。来賓には自・公・維新・国民の首脳が顔を揃えていた。その会場ではっきりしたのは、いまだに統一教会の代表者など、動員がかけられ出席している。そして会場の設営まで関わっていた。岸田「統一教会との関係は絶つ」この男のウソは本当に罪深い。どこまで国民をこけにするのか。

◆聖徳太子の生い立ち

太子のもとの名は厩戸皇子といい「元興寺縁起」にひく、塔露盤銘にも「有麻移刀等(うまやど)・刀弥々乃弥己等(とみのみこと)」と書いている。

○太子はまた豊聰耳(とよとみみ)とも、法大王(のりのおおきみ)などともいわれた。

▲用明は即位したものの、すぐに病床の人となった。

皇太子には押坂彦人大兄皇子が立ったようである。

しかし朝廷の内紛は用明の病をよそに深刻化していた。遂に武力による戦闘にまで発展した。

○蘇我氏は天皇家の外戚として安定した立場にあった。

物部守屋は武力によって大勢を挽回しようとはかったからである。

守屋は河内の阿都(あと)の別業(なりどころ)に入り、中臣勝海連も連合した。

○用明は即位の翌年四月に不幸な生涯を終えた。

翌月守屋は、穴穂部皇子の即位を実現しようとはかり、さらに武備をかためた。

○一方馬子は六月になって、豊御食炊屋姫に詔をださせ、佐伯連丹経手(にうて)らに銘じて穴穂部皇子の宮を襲わせた。皇子は楼に上がって隠れたが、突き落とされさらに遁れようとしたが殺害された。