no,2561 飛鳥の朝廷(その82) | 古代史のページ福さん

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ガーンガーン 「人生」めんどくせ~~(41) ポーンポーン

★投稿する前まで「・・・」で終わることにしていた。

まさかエンゼルスに戦う気力が残っているとは、奇跡

◆皇位継承

穴穂部皇子は皇位継承の順位からは遠いはずであるが「紀」には「穴穂部皇子、天下を取らんとす」と書いてある。

皇子が敏達天皇の殯の場で皇位への野心を宣言した瞬間であった。

○物部守屋は兵を用いて三輪君逆(さかう)を滅ぼしたという。

▲聖徳太子の生い立ち

用明天皇は欽明を父とし、稲目の娘堅塩媛を母としている。天皇は蘇我氏を外戚とする初めての天皇。

○用明は堅塩媛の姪の穴穂部間人皇女を皇后として、四男を産んだ。聖徳太子・来目皇子・殖栗(えくり)皇子・茨田皇子であった。

○用明は又、稲目の娘石寸名(いしきな)を娶って、田目皇子を、そして葛城直磐村の娘広子との間に麻呂子皇子と一女をもうけている。

○太子の生年は『法王帝説』では甲午年(敏達三年574年)である。

聖徳という呼び方は推古朝の皇子になってからの、後のものであり、聖徳も死後に称えたものである。

○慶雲三年(706年)造営の法起寺の塔の露盤銘に『上宮太子聖徳皇』とあるのが最も古い。

奈良県川西町唐院に鎮座境内には富貴寺がある。