世の中に興味を持たないASDだと思われる母親に育てられました。


解離とうつ病と共に生きるへなちょこあせるです。


母親と流行りの話をしたことはありません。なぜなら彼女の世界観に流行りについての認識がないからです。


彼女はその世界観で生きていて、その世界観から出られず、それで完成されているのです。流行りを知らないことに対しての困り事はない。


でも、その世界観で育てられた私は同時代を生きている大半の人が見聞きしている、感じている事と無縁でした。


「あれ良いよね」が分からない恐怖。田舎で、友達の家も遠く、本屋やコンビニ、図書館に自力で行かれない子どもの頃。テレビもほとんど観せてもらえない。


流行りが分からないと言うことは、流行りを取り入れることもない。私が感じていたなんだかみんなと違う、普通になりたい、は解離している精神だけではなく環境的な事も含まれていました。


流行りを知らなかったと言うことは、過去を知らないことでもあると今は寂しく思います。


「あれ良かったよね、懐かしいね」にも参加できません。後付けで知識として取り入れた事であり、その年代の私が全身で感じた事ではないことがたくさんあります。


流行りは共通言語。会話は記憶や知識という共通言語から成り立つ場合も多いかなと感じています。