
西都の古墳群
本日は親戚を案内して、久しぶりに西都の古墳群へ。前方後円墳の方の部分が三角錐のようにとんがっていて、近頃韓国で報告されているものと同じであることに気づく。また円墳の下に地下式横穴墓があることにも気づく。古田武彦が大阪の巨大墓の下には前の権力者の墓があるのではないかと幻視したことを思い出した。
水田喜一朗!
国会図書館の複写サービスに昔の『詩学』がようやく登場したので、ブランショの「ルネ・シャール論」を註文してみた。訳者はシャールに傾倒していた水田喜一朗。一週間で送られてきた。
高校か大学に入りたての頃に読んで感激した初めてのブランショであったが、今読んでもなかなかに難解で、意図するところを感受しえているのか、全くおぼつかない。
論中のシャールの詩の一編は
「最初に訪れてきた
存在[もの]」
と訳されている。これが『焰の文学』では
「存在
初めに来るもの(全詩集版では最初に来た者)
となっている。水田訳は言葉の動きを感じさせる訳だと思う。
『焰の文学』の別訳と対照してみると、総じて水田訳は原文の意を伝えようと長々と訳しているようだ。
水田喜一朗を検索してみると、天童大人さんの2008年のブログ記事に、仏文学者の後藤信幸さんから、本にできる分量の水田訳のシャールの詩をもらったとあるので、メールを出してみたが、送達不能で返されてきた。
ああ、水田訳のシャール詩集が読みたい。原文で読めればいいのだけれど。
「きみを知るまえには、ぼくは食べてもひもじかった、飲んでも渇きがとまらなかった、善も悪もどうでもよかった、ぼくはぼくではなかった、ただぼくの間近にいるにすぎなかった。」
この「きみ」は直接的には女性だろうが、あるいは詩人自身かもしれない。また神さまと考えることもできるし、ルーミーのようなスーフィ詩人の作だといっても通るだろう。
法事の話題
又吉が250万部売れたのに、モディアノが1万部なのはおかしい。 (親戚の人がモディアノの翻訳をしていた)
「怪樹の腕」の電本の印税が100円だった。 (伯父の創作翻訳が東京創元社から出た)
私の訳本が出るとしても3千部いかない。 (その後「ヴィリコニウム」はX000部出た)
おじさんの法事の話題。
識字障害に新たな光?
識字障害の人は、光を感受する細胞が両眼とも同じパターンで並んでいる。そのため同一の像が生成されて、脳が混乱する。
普通の人は細胞が非対称的で、一方の像をもう一方が乗っ取る。
手に右利き左利きがあるように、眼にも利眼があり、多くの人は右目が利眼。利眼は脳につながる神経が多い。像の信号は桿と錐で感受される。錐が色を担当する。
錐は多くが網膜の中心くぼみにあるが、青の錐のない小さい穴がある。普通の人の利眼のその穴は丸く、反対の眼はいびつ。識字障害の人の眼ではどちらも丸い。どちらも利眼と見なされない。
この非対称性の欠如が識字障害の原因。
高速で点滅するLEDを使うと識字障害をなくせる。
ガーディアンの記事。
モオリス・ブランショ
モオリス・ブランショ ルネ・シャール
ぼくらが好んで答えようとしたものは、ものいわぬさまざまの質問や数々の運動の準備に対してだけのことだったらしい。ところが起ったのはあの即興や宿命的な違反などであった。
解き明かせぬ、そして正体不明の無限。近よりながら近よれぬ確立した全体。とりこにされた空気の中で吟誦する火ともいえるかしこのような火のようなもの。
時が近づく、説明できぬものとして止まりつづける術を知っているものだけがぼくらを納得させることのできる場所に。
忍耐力を保持し、煙を拡散させるために広々とした自我にむけて未来を投げかえすのだ。
土地よ おまえはおまえは粉砕し埋葬し掻きならすのだ! ぼくらが忌避するものは そのあつかましさのために無為にされているのだが、おまえから猶予を手に入れることはできぬだろう。
死がぼくを受け入れるはずの夜は平坦でどこにも傷をつけていないだろう。かつて神がみにより分配されていたシロッコのほんの少しはぼくから生まれでた最初の人、とは別の、さわやかな息吹きとなってゆく。
この人の抗議の申し立てが終るまで頂上でバラを保持しつづける。
——訳者はおそらく水田喜一郎さんです。
「カメラを止めるな」雑感
2020年2月8日
テレビ欄を見ていたら「カメラを止めるな」がまた放送されていた。
ゾンビドラマを生放送するという企画がそもそも狂っているけれど、本篇は30分余で終わり、それからはメイキング映像になる。これはゾンビ映画でもなければ映画でもなく、漫才のようなメイキングの面白さを狙ったものだろう。
表面的なトリビアにこだわり、その追求で満足するという意味で傑出した作品かもしれない。
トリビアの愛玩という意味では、近頃増補版のできた「この世界の片隅に」も同様だ。ここにドラマはなく原爆の直前の広島の町を再現しようという執念だけがある。
映像は何らかの反映、あるいは想像力をはばたかせる種子ではなく、その映像に固着する熱狂的なファンのためのものであるようだ。想像力はフィルム映像そのものに固着している。
古谷実のマンガが都市の底辺の労働者の地を這うような想像力でつくられ、主人公たちは確かに現在の日本に存在していて、似通った感情を抱いているかもしれないと思わせ、奇想天外な破滅に向かっていきながら、さまざまな想像を働かせてくれる作品になっているのとはベクトルが逆転している。
てなことを考えました、◎
テレビドラマ「仁」
2020年5月3日 ·プライバシー設定: あなたの友達
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再放送の「仁」を観た。途中から主人公がタイムトラベル理論を神器くさく論じるので、嫌になったが、歳の功で何とか最後まで観たよ〜。龍馬を演じる内野くんの快演が爽快。しちめんどくさいSF理論はアメリカのSF作家に任せて、こちとらは与えられた状況の中で最善を尽くす姿を見たいものであ〜る。
「千年紀の民」J・G・バラード
「千年紀の民」J・G・バラード 増田まもる訳、東京創元社刊
(2011年04月09日21:49〜05月10日のmixi 日記を編集)
「千年紀の民」は21世紀の「共産党宣言」、革命のアジビラだ。バラードとしては珍しく、時事的な描写が頻出する。ロンドンの中産階級を革命に駆り立てようと状況をつめていく。不可能な夢か。来るべき死を感じてバラードは必死なのだろうか。
「千年紀の民」は今までの作品とは全く異なる新しいバラードの長編である。そして「クラッシュ」と同じく「私」が登場する。バラードは本気なのである。
突然あらわれたかに思えるこの長編にも、萌芽がなかったわけではない。1989年の「ウォー・フィーバー」は果てしなく戦闘をくりかえすパレスチナを描く短編だった。今回はロンドンの中産階級が果てしない破壊へとつきすすむ。
ヒースロー空港で外世界との関わりを断ち、国立映画シアターで20世紀の偶像を破壊し、テートモダンで現代美術を叩きのめす。「残虐行為展覧会」の陰画である。ここでバラードは過去の自分をも否定しようとしている。
革命が難しいのは我々の頭の中が”敵”に占領されているからだ。”自分の考え”と思っているものが、”敵”の考えかもしれないのだ。とすれば真の革命は、無意味無目的でたらめに遂行されなければならない。
フィンランド駅が二度も言及されるのは、これが第二のロシア革命であることの表明だ。
これは21世紀の「共産党宣言」であり、革命教書であり、それを実行にうつすのは21世紀に生きる我々なのである。
そしてその先には、バラード最後の長編「王国来れり」が降臨の時を待っている。
中産階級の都市革命という概念はこれまでの常識を超えている。第二のロシア革命というにふさわしい。ただ革命というのは歴史を意識した概念で、バラードの扱う革命は歴史を超越している。
