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「土地の人はなぜそこが『はけ』と呼ばれるかを知らない…」の一節で始まるのは大岡昇平のベストセラー『武蔵野夫人』だ。発表されたのは独歩の『武蔵野』からほぼ50年後の昭和25年。当時は『武蔵野』が一つのブランドとして確立されていたと聞く。今でいうと『軽井沢夫人』『麻布夫人』みたいなニュアンスであろうか。が、書きたいのは『武蔵野夫人』の内容では無く、小説の冒頭に出てくる『はけ』のこと。

丘や台地の縁の崖線を指す古語に由来する『はけ』、武蔵野台地の南岸、立川に端を発し国分寺付近からは野川の北を沿い、世田谷の等々力渓谷の先まで延びる、古の多摩川によって成された河岸段丘が有名だが、『はけ』はこの地に限ったことでは無く、同じ意味の古語『まま』と共に主として東国を中心に広く使われている。

武蔵野台地の北縁も同様に崖線が続き、その先には荒川や入間川が流れている。しかしこちら側ではあまり『はけ』『まま』とは言わない。因みに武蔵野台地の北側と南側、どちらも多摩川が削って現在の様な状況になったらしい。何万年か前、立川断層の隆起によって北側への流れを堰き止められる以前、武蔵野台地を縦横無尽に流れていた古の多摩川は現在の荒川のあたりを流れていた時期もあった。で、荒川はもともと今の元荒川の川筋を流れていた。白子川や黒目川といった、荒川に注ぐ河川もかつての多摩川の流路の名残と考えられている。

武蔵野の『武蔵』、かつては『无邪志』と書かれていたようで、一説には无邪志の『无』とは『水』…川や沼、湖のことらしく「水のさす」の意味があったらしい。武蔵野とは荒涼不毛の台地では無く、水とは深い縁のある土地だ。更に多摩川と荒川とのほぼ分水嶺を往く玉川上水が作られて以降、武蔵野台地は農住が近接した近代の、独歩を感動させた景観を成していく。武蔵野を語る時にはそんな河川を無視する訳にはいかないだろう。

大岡昇平『武蔵野夫人』の頃の景観を辛うじてい今に伝える場所がある。府中運転免許試験場や多磨霊園から程近い、その名もズバリの『武蔵野公園』や『野川公園』だ。どちらも都立公園としてキチンと整備されている。武蔵野公園の片隅からは『はけ』の様子がよく見える。



手前の平たい草地は野川が洪水になった際、溢れた水をプールするための調整池となる。都心から程近いとは思えない風情だ。



写真のような崖線が世田谷まで続いていく。独歩『武蔵野』や大岡昇平『武蔵野夫人』の頃の情緒を感じるのにはお手頃な場所だと思う。



ついでの余談。その武蔵野公園、以前は片隅の目立たないところで『はらっぱ祭り』なる音楽イベントが開かれていた。私のバンドが出演した20年くらい前(写真)には既に真っ昼間から周囲には枯葉を燻したものに線香を混ぜたような匂いが立ち込め、『はらっぱ祭り』もとい『ハッパ祭り』と揶揄されていた状況。間も無く当局からの指示でイベントは中止に追い込まれた。(続く)