2015年8月、左手に搭乗券、右手にキャリーを引っ張って初めての宮崎空港を歩いていた私は、遠くに搭乗口の標識を見つけてちょっと急ぎ足になりました。
そのとたん、キャリーの前を歩いていた人が突然立ち止まったのです!
キャリーがぶつかり、右手が離れ、私の身体は1メートルくらい前へ吹っ飛びました。
左半身が固い空港の床に叩きつけられ、すぐには起き上がることも出来ません。
すぐに空港の男の人が駆けつけてくれました。
抱き起こされたところへ車椅子が届き、そこへ腰かけようと立ち上がった時、かすかにカシャッという音がしました。
ああ、脚が折れちゃった。
男の人はすぐ救急車の手配をし、買ったばかりの搭乗券を払い戻しに行ってくれました。
救急車が到着するまでの間、大勢の人の好奇の目にさらされながら車椅子に座ったままの私には辛い時間でした。
やがて救急車が来て近くの整形外科に運ばれレントゲン台に乗る時、初めて激痛を感じました。
左大腿骨骨折と判明。
ここでは入院できないからと再び救急車で別の病院に運ばれました。
そこでまたレントゲン台に上らされ、痛かったです。
病院に着いてすぐ彼に電話しました。
「もしもし、もう家についた?」とのんびりした声が聞こえます。
「それがね、大変なことになっちゃって、今病院のストレッチャーの上なの」
顛末を話すとびっくりして、すぐに行くよ、と言ってくれました。
病院の都合で手術は2日後と言うことになり、身内の人を呼んでくださいと言われました。
身内は子ども3人だけで、それぞれ札幌と東京と軽井沢にいるので来るのは大変ですから友達ではだめですか?日向市になら親友がいるのですが、と言ったら、OKになりました。
それでむっちゃんに電話。すぐに車をとばして来てくれました。
車で1時間半もかかるというのに、申し訳ない。
彼が来るならホテルを予約しておこうと、彼女がテキパキと事を進め、手術や入院の手続きもしてくれました。
彼が到着した時、私はすっぴんで、ベッドには尿管からの尿の袋がぶらさがっているという情けない姿。まだそんな姿を見られるのが恥ずかしい時期でした。
私が手術を受けている間、初対面同士の彼とむっちゃんが何を話していたか知りませんが、はからずも彼を家族に紹介する前に、真っ先に友達に会ってもらうことになってしまいました。
手術は順調に終わって、私の左脚には細長い金属の棒が入りました。
翌日から早速リハビリが開始。これはけっこう辛かったですが、早く良くなりたい一心で頑張りました。
でもキャリーバッグの中にはパジャマも洗面道具も着替えも入っていましたから、入院には打ってつけだったのです。。
娘たちには来なくてよいことを告げると、次女は丁度9月に結婚式の打ち合わせで日向市の大御(おおみ)神社へ行くことになっていると言います。
その時にもし退院出来るようなら一緒に東京へ帰れると言うので、そうすることにしました。
彼女は知らせを受けた時かなり心配したようですが、私が「病気と違って怪我は翌日から確実に治り始めるのだから心配はいらない」と言った言葉にかなり安心したそうです。
その病院には10日ほどいて、その後むっちゃんの家の近くの病院に転院してリハビリを続けました。
そして5週間後に退院。娘に付き添われ、空港では車椅子で優先搭乗。
無事に東京の自宅へ戻りました。
そのとたん、キャリーの前を歩いていた人が突然立ち止まったのです!
キャリーがぶつかり、右手が離れ、私の身体は1メートルくらい前へ吹っ飛びました。
左半身が固い空港の床に叩きつけられ、すぐには起き上がることも出来ません。
すぐに空港の男の人が駆けつけてくれました。
抱き起こされたところへ車椅子が届き、そこへ腰かけようと立ち上がった時、かすかにカシャッという音がしました。
ああ、脚が折れちゃった。
男の人はすぐ救急車の手配をし、買ったばかりの搭乗券を払い戻しに行ってくれました。
救急車が到着するまでの間、大勢の人の好奇の目にさらされながら車椅子に座ったままの私には辛い時間でした。
やがて救急車が来て近くの整形外科に運ばれレントゲン台に乗る時、初めて激痛を感じました。
左大腿骨骨折と判明。
ここでは入院できないからと再び救急車で別の病院に運ばれました。
そこでまたレントゲン台に上らされ、痛かったです。
病院に着いてすぐ彼に電話しました。
「もしもし、もう家についた?」とのんびりした声が聞こえます。
「それがね、大変なことになっちゃって、今病院のストレッチャーの上なの」
顛末を話すとびっくりして、すぐに行くよ、と言ってくれました。
病院の都合で手術は2日後と言うことになり、身内の人を呼んでくださいと言われました。
身内は子ども3人だけで、それぞれ札幌と東京と軽井沢にいるので来るのは大変ですから友達ではだめですか?日向市になら親友がいるのですが、と言ったら、OKになりました。
それでむっちゃんに電話。すぐに車をとばして来てくれました。
車で1時間半もかかるというのに、申し訳ない。
彼が来るならホテルを予約しておこうと、彼女がテキパキと事を進め、手術や入院の手続きもしてくれました。
彼が到着した時、私はすっぴんで、ベッドには尿管からの尿の袋がぶらさがっているという情けない姿。まだそんな姿を見られるのが恥ずかしい時期でした。
私が手術を受けている間、初対面同士の彼とむっちゃんが何を話していたか知りませんが、はからずも彼を家族に紹介する前に、真っ先に友達に会ってもらうことになってしまいました。
手術は順調に終わって、私の左脚には細長い金属の棒が入りました。
翌日から早速リハビリが開始。これはけっこう辛かったですが、早く良くなりたい一心で頑張りました。
でもキャリーバッグの中にはパジャマも洗面道具も着替えも入っていましたから、入院には打ってつけだったのです。。
娘たちには来なくてよいことを告げると、次女は丁度9月に結婚式の打ち合わせで日向市の大御(おおみ)神社へ行くことになっていると言います。
その時にもし退院出来るようなら一緒に東京へ帰れると言うので、そうすることにしました。
彼女は知らせを受けた時かなり心配したようですが、私が「病気と違って怪我は翌日から確実に治り始めるのだから心配はいらない」と言った言葉にかなり安心したそうです。
その病院には10日ほどいて、その後むっちゃんの家の近くの病院に転院してリハビリを続けました。
そして5週間後に退院。娘に付き添われ、空港では車椅子で優先搭乗。
無事に東京の自宅へ戻りました。