離婚届を出すにあたって自分の姓をどうするか考えました。
少し前までは夫の許可がないと結婚していた時の夫の姓は名乗れない法律でしたが、さすがにその頃は許可がなくてもそのままの姓は名乗れるように改正されていました。
私の旧姓は「本多」。
ルーツは平安時代まで遡れる姓なので母の戸籍に戻ればこちらが名乗れたのですが、当時はまだPTAの名簿がありましたから、次女が嫌な思いをしないで済むようにと結婚後の姓のままにしました。
次は家の名義変更です。
私の出した条件に夫は異議を唱えなかったので(異議の出ないようにしたからですが)住んでいる家の名義を私に変えることにしました。
すると予想していないことが起きたのです。残りの残債を全部払わなければならないことが分かりました。そしてその手続きをするための司法書士への手数料もバカになりません。
予想外の出費に青くなりましたが、ボーナス2,3回分つぎ込んで何とかなりました。
(しかしこの家もその数年後には思いもかけないことから手放すことになります)
後で知ったことですが、すぐに離婚をしていたら母子家庭として何らかの援助金がもらえたらしいのです。当時の法律で120万円近い金額だったのを記憶しています。
また別居が始まった時点で夫の銀行口座にあったお金も本当は財産分与の対象になるのに、うっかりしていました。というか、夫がすんなり渡す筈がないとどこかで最初から諦めていたのかも知れません。
ともかくもこうして一家の主となった私は毎日通勤に励み、ジャズ仲間との集まりや、それまでは時間がなくてなかなか会えなかった学校時代の友人たちとの交わりを大いに楽しんでいました。
大学生の娘の帰りが遅いので文句を言っていたのですが、ある時パーティーの2次会で六本木へ行ったところ、夜中とは思えない賑わいを知って、これは無理ないと思ったのを覚えています。
ディスコが盛んで、お立ち台とか有名だった頃の話です。
長女はフランスから帰って来たら日本の大学生が幼稚に見えてしまうと言っていましたが、私もそれは以前から感じていました。
娘が入学した後「父母会」のお知らせが来たのです。
全国から学生が来ていますから各地区ごとに開催されていて、両親が出向くらしいと聞いてちょっと呆れました。
また文化祭に行った時、小学生が喜ぶようなゲームに嬉々としている学生たちを見て呆れたこともあります。
みんな受験勉強だけしかして来なかったので、大学に入ってやっと遊ぶことが出来たのかとちょっと可哀そうにはなりましたが。
夫がいた頃は門限が異常に厳しかったので、高校生になった次女にはいっさい門限はなしにしました。但し、無断で遅くなると心配するから、遅くなる場合は必ず連絡することという決まりは作りましたが。自由には責任が伴うことだけ分かっていればいいと思ったのです。
次女は同級生の親御さんには信用があったらしく、時にはダシに使われることもあったようで、うちに泊ると言えば信用してくださる家もあったとか。
その場合、親御さんからの問い合わせには私も親だから嘘はつけないからね、と念は押しました。
幸い次女は私に心配をかけるようなこともありませんでした。
むしろ自由を満喫していた私の方が娘に心配をかけていたかも知れません。
少し前までは夫の許可がないと結婚していた時の夫の姓は名乗れない法律でしたが、さすがにその頃は許可がなくてもそのままの姓は名乗れるように改正されていました。
私の旧姓は「本多」。
ルーツは平安時代まで遡れる姓なので母の戸籍に戻ればこちらが名乗れたのですが、当時はまだPTAの名簿がありましたから、次女が嫌な思いをしないで済むようにと結婚後の姓のままにしました。
次は家の名義変更です。
私の出した条件に夫は異議を唱えなかったので(異議の出ないようにしたからですが)住んでいる家の名義を私に変えることにしました。
すると予想していないことが起きたのです。残りの残債を全部払わなければならないことが分かりました。そしてその手続きをするための司法書士への手数料もバカになりません。
予想外の出費に青くなりましたが、ボーナス2,3回分つぎ込んで何とかなりました。
(しかしこの家もその数年後には思いもかけないことから手放すことになります)
後で知ったことですが、すぐに離婚をしていたら母子家庭として何らかの援助金がもらえたらしいのです。当時の法律で120万円近い金額だったのを記憶しています。
また別居が始まった時点で夫の銀行口座にあったお金も本当は財産分与の対象になるのに、うっかりしていました。というか、夫がすんなり渡す筈がないとどこかで最初から諦めていたのかも知れません。
ともかくもこうして一家の主となった私は毎日通勤に励み、ジャズ仲間との集まりや、それまでは時間がなくてなかなか会えなかった学校時代の友人たちとの交わりを大いに楽しんでいました。
大学生の娘の帰りが遅いので文句を言っていたのですが、ある時パーティーの2次会で六本木へ行ったところ、夜中とは思えない賑わいを知って、これは無理ないと思ったのを覚えています。
ディスコが盛んで、お立ち台とか有名だった頃の話です。
長女はフランスから帰って来たら日本の大学生が幼稚に見えてしまうと言っていましたが、私もそれは以前から感じていました。
娘が入学した後「父母会」のお知らせが来たのです。
全国から学生が来ていますから各地区ごとに開催されていて、両親が出向くらしいと聞いてちょっと呆れました。
また文化祭に行った時、小学生が喜ぶようなゲームに嬉々としている学生たちを見て呆れたこともあります。
みんな受験勉強だけしかして来なかったので、大学に入ってやっと遊ぶことが出来たのかとちょっと可哀そうにはなりましたが。
夫がいた頃は門限が異常に厳しかったので、高校生になった次女にはいっさい門限はなしにしました。但し、無断で遅くなると心配するから、遅くなる場合は必ず連絡することという決まりは作りましたが。自由には責任が伴うことだけ分かっていればいいと思ったのです。
次女は同級生の親御さんには信用があったらしく、時にはダシに使われることもあったようで、うちに泊ると言えば信用してくださる家もあったとか。
その場合、親御さんからの問い合わせには私も親だから嘘はつけないからね、と念は押しました。
幸い次女は私に心配をかけるようなこともありませんでした。
むしろ自由を満喫していた私の方が娘に心配をかけていたかも知れません。