次女が生まれる前の10年間、晴海団地に住んでいた頃は私の実家がバス1本で来れる所にあったので、まだその頃元気だった祖母がよく子守りに来てくれたり、子ども達の誕生日には両親や夫の母も来てくれて賑やかな「団らん」はよくありました。


仕事は忙しかったけれど、たまには銀座へ食事に行ったり映画館へ行ったり、遊園地や短い旅行にもいつも親子4人で行きました。

それなりに子ども達も喜んでいたのですが、7歳までそこで育った息子は一切覚えてないと言うのです。


石神井に引っ越し、次女が生まれてからのことの方が強烈過ぎて、そちらが上書きをしてしまったのでしょう。

夫の私に対する態度も明らかにその頃から変わったことも覚えています。

いちばんショックだったのは、産後1週間で退院し、あとまだ最低でも2週間は産褥と言って寝ていなければならない時に、「毎日寝ていられていいな」と言われたり、「これ明日までにやっとけよ」と台本と原稿用紙をどさっと枕元に放り投げられたことでした。(昔は産褥の間は「目が上がる」からと文字の読み書きは禁じられていました)


全てに仕事優先は分かっていましたが、そんな時まで、と私はその非情さが悲しかったです。


でも今考えてみると、団地とは言え初めて自分の家を持ちローンと言うものを抱えた訳です。

それが夫の不安となり緊張となっていたのではないでしょうか。


とても責任感の強い人で、どちらかと言えばネガティブ思考、几帳面と来ていますからそのストレスは想像以上のものだったかもしれません。

元々金銭に細かいところがある上にその重圧がのしかかり、子どもへのアルバイト要求も強くなったのでしょう。


その上に通常の家庭のあり方を知らない彼には彼なりの理想的な家庭像があり、それを実現させたかったのだと思います。

朝晩の食事は家族全員が揃うこと、というのが先ず一つ。

しかし、そこを和ませることをせず説教の場にしてしてしまっては何もなりません。


クリスマスには家族みんなでのプレゼント交換というのも恒例でしたが、それも強制では楽しくありません。用意が間に合わなかった息子への怒声で楽しくも何ともない年になったこともありました。


そのように頭で考えた楽しい家庭を作ろうとしながら、それが思うように行かないイライラ、仕事の忙しさのイライラ、ローンの重圧などの捌け口があまり成績の芳しくない息子に向けられてしまったのでしょう。


このような訳で次女は一度も家族での旅行も遊園地も家族団らんも知らずに育ってしまったのです。